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2020/02/16

【Japan】下関の三枡と奈良のペルシャ人たち

 2月13日、14日に山口県と大阪に出張の機会があったので、3年前に訪れた下関の居酒屋 三枡(下関のふくと高杉晋作の功山寺挙兵)に再び訪れました。


 熟成された美味しい天然の「ふく」が食べたいのはもちろんですが、三枡の雰囲気が実に風情があっていいのです。



 例えば、この入り口に至る通路や黒板に書かれたメニュー。
 国内外を問わず、旅先で地元の食材が地元の食べ方で安価で、しかも美味しく食べれることは嬉しいことです。三枡は下関の駅から近いこともあって、大きめのカバンを持つサラリーマンですぐに満席になります。きっと彼らの下関出張時の行きつけの店なのでしょうね。

 ふくの白子

 クジラの皮とさえずり

 ふくチリ(ふくの唐揚げは写真なし)

 鳥の唐揚げ(絶品です)

ヒレ酒

 もう一度訪れることができるかどうか分かりませんが、下関に立ち寄ったら三枡は外せない大衆居酒屋です。

 翌日は、下関から瀬戸内海沿を新幹線で大阪に移動し(仕事を行い)、翌日の土曜日(15日)に奈良を自転車で散策しました。なぜなら最近(2016年)、奈良にペルシャ人が住んでいた学術的証拠が見つかったので、その痕跡を訪ねてみたかったのです。

 数学教えていた? 平城京にペルシャ人の役人 木簡に名前
 奈良文化財研究所の渡辺晃宏(Akihiro Watanabe)史料研究室長によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャが得意としていた数学を教えていた可能性があるという。 渡辺史料研究室長は、これまでの研究でペルシャとの交流は7世紀にも始まっていたとされているが、当時、遠いペルシャの国の人が日本で働いていたことが確認されたのは初めてで、奈良が国際色豊かで外国人も平等に扱われていたことを示すものと語った。


 書かれていた名前は波斯清通(清道)。「ぺるしあ」を漢字変換すると「波斯」となりますが、ペルシャ人の清道さんという人名が765年の木簡に記されていたのです。

 平城宮跡資料館にはペルシャ文化がシルクロードを通って伝えられた証拠が数多く展示されています。

木簡

 ペルシャ絨毯と天皇のベット

 ペルシャのグラス

羊の硯

 これだけでもペルシャとの文化交流の痕跡を感じますが、実際にペルシャ人が住んでいたとは驚きです。

 奈良時代は古事記が編成された710年頃はじまり、平城京が長岡京へ移動する784年まで続きます。今回発見された木簡は765年のものですから、奈良時代のものです。

 当時のイスラームの歴史を追ってみると、ムハンマドがなくなったのが632年。その後、4人のカリフが後継者となり(正統カリフ時代)、637年にカーディシーヤの戦いで現在のイラク・イランにまたがるササン朝ペルシャを破りました。


 そして、ペルシャ人に浸透していたゾロアスター教がイスラームに改宗され、現在のシリアのダマスカスを首都としたウマイヤ朝(661−750年)から現在のイラクのバクダードを首都としたアッバース朝(750年−1517年)に移行しました。

 ペルシア人たちも、アラビア語を異民族の言葉でなく、イスラムの言語として受容していった。そしてサーサーン朝が培った洗練された文化ともに、哲学、神秘主義、歴史、医学、数学、法学などの学芸、科学の分野において、アラビア語で業績を残すようになった。それは、アラブの歴史学者のイブン・ハルドゥーン(1331−1406)がその著作『歴史序説』の中で、「たいていのアラブの科学者たちが非アラブ人であった」と書いていることからも明らかなように、アラビア語の文法を体系的にまとめた文学者のスィーバワイ(?−796)などは、ペルシア人でありながらもアラビア語に精通していた。スィーバワイはアッバース朝下のバスラで伝承学や法学を修めた人物で、シーラーズ(イラン中西部)出身のペルシア人であった。
 こうしてアラブに征服されたペルシア人は、おおやけにペルシア語を用いることはせず、ペルシア文化をもとにアラビア語で実績を重ね、さらにイスラムにも帰依するようになった。だが、それでも自らの言語や文化・伝統を忘れることはなかった。 オリエント世界はなぜ崩壊したか P83より

 となると、波斯清道さんはイスラームに征服されたアッバース朝時代のペルシャ人ということになります。数字の「0」やアラビア数字は古代インドからイスラームを経てヨーロッパにもたらされていることから、当時の波斯清道さんが日本人に数学を教えていたことも頷けます。
 その後、ペルシャ人は数学を発展させ、9世紀前半にバクダートで活躍したイスラムの科学者フワーリズミーは代数学の礎を築き、平方根や繁分数を生み出しました。

 ここで気がついた人も多いと思いますが、同じイスラームでも日本にきていた人たちはペルシャ人だということです。アッバース朝に支配された現在のイランやイラク地域のシーア派の人たちの祖先がシルクロードを通り、下関の関門海峡を通過し、瀬戸内海から大阪に入り、そして平城京にたどりついていたのです。


 以前にまとめたブログで、東大寺の修二会(お水取り)の企画立案者である実忠さん(726年)がペルシャ人ではないか、という説を紹介しましたが、実忠さんと波斯清道さん(765年)が年代的にも40年ほどの差しかないのは、平城京にはペルシャ人が何人も日本に住んでいたと類推でき、面白いものです。

 カナートと東大寺二月堂の修二会
 ここに「ペルシア文化渡来考」という1冊の本があります。著者は伊藤義教さんというイラン学者です。 この本ではイランにおけるゾロアスター教の要素が、東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)に伝わっている、と考察しています。 

 お水取り:魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという、「お水取り」の由来を伝えている。

  「若狭の国の遠敷明神というのは、・・・国鉄小浜線小浜駅の南七〇〇メートルの同市遠敷にあって若狭姫神社と呼ばれる。・・・遠敷明神と結び付いた背景には『北方から正月の水が二本、地中をくぐって流下し、奈良の二月堂で地上に出た』 ・・・ そういう考えがあったことになる。そして、これはまさしくカナートと同じ考え方である。・・・若狭から奈良へのカナートとなれば直線距離にして九〇キロメートルはあるから、架空的なものではあるが、世界最長のものとなろう。・・・お水取りの一〇日前、三月二日には遠敷川上流、鵜の瀬で『送水の神事』が行われる。この地は若狭彦神社の南南東約二キロメートルにあり、遠敷川は『東大寺要録』に言う音無河である。」  ペルシア文化渡来考より 

 達陀の行法(だったんのぎょうほう):「達陀」とは「(火を)通過する・(火)渡り」の行ということで、名実ともにイラン起源のもの ・・・ イランの事情を踏まえて実忠によって創始されたものとみることができる」 ペルシア文化渡来考より

  「達陀の行法(だったんのぎょうほう)は、堂司以下8人の練行衆が兜のような「達陀帽」をかぶり異様な風体で道場を清めた後、燃えさかる大きな松明を持った「火天」が、洒水器を持った『水天』とともに須弥壇の周りを回り、跳ねながら松明を何度も礼堂に突き出す所作をする。咒師が『ハッタ』と声をかけると、松明は床にたたきつけられ火の粉が飛び散る。修二会の中でもっとも勇壮でまた謎に満ちた行事である。」 Wiki修二会より 

 イラン学者である伊藤義教さんは、修二会を創始した実忠は「イラン系異邦人である」という仮説を持っていますが、確かにカナートと「お水取り」、ゾロアスター教の終末の火(火審と浄罪)の役割と「達陀の行法」は極めて類似しています。

 カナート ⇒ お水取り
  終末の火 ⇒ 達陀の行法

 実忠がイラン系であったか、あるいはソグド人のようにアジアに溶け込んでしまったアジア人(コーカソイド⇒モンゴロイド)なのかは分かりませんが、なぜ水が豊富な日本の東大寺にゾロアスター教の2つの要素(お水取り、達陀の行法)を伝えたのでしょうか。 そして、それが現代まで伝承されている必然性は何なのでしょうか...


 古事記が書かれた平城京の時代にペルシャ人が日本に住んでいたということは、奈良の発掘調査(現在40%が発掘済)で今後も数多くの証拠が出てくるでしょう。

 下関三枡の「ふく」が出張者を満足させるように、平城京を訪れたペルシャ人は日本の料理に満足したのでしょうか、、、住み着いたのですからきっと美味しい食べ物があったのでしょうね。