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2019/09/07

【UK】Border Songと異邦人

 久しぶりの映画館での映画鑑賞で「ロケットマン」を観ました。
 ご存知のようにロケットマンはエルトン・ジョンの半生を描いたもので、特に初期の頃の歌が満載された映画です。クィーンの「ボヘミアンラプソディー」と比較される映画ですが、ロケットマンはミュージカルになっています。

 生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)にはレコード店はなく、少しだけレコードが置いてある楽器店が1件だけありました。1974年に創刊された「FMレコパル」を創刊号(1974年創刊、1995年廃刊)から愛読しており、そこに掲載されていた新盤アルバムの評価を頼りに、毎月1枚だけ、その楽器店でアルバムを取り寄せてもらっていました。

 当時中学生だった私は、夏休みに電気屋で働いたアルバイト代で購入したコンポステレオ(ONKYOのスピーカー、Pioneerのアンプ、Technicsのプレイヤー)で、そのアルバムを大音量で聴くのが楽しみで、クィーンもエルトン・ジョンも、当時ブームだったプログレッシブ・ロック(ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマーなどなど)もコレクターのようにアルバムを集めていたのです。

 高校生になる頃には、プログレッシブ・ロックも影を薄め、しばらくするとクィーンもブームが落ち着きましたが、エルトン・ジョンだけは定期的にアルバムを出していましたので、聴いていました。英語は聞き取れないのですが、音楽の傾向が聞き流しながら聴けるため、耳障りのないバックグランドミュージックとして聴き続けていた訳です。そのためか、聞き慣れた曲が多く、名古屋でビリー・ジョエルとのジョイントコンサート(1998年)にも行きましたし、東京でも日本武道館でのコンサート(2007年11月)にも行きました。

 特に初期の頃の吟遊詩人と呼ばれていた頃の歌が好きで、翻訳した歌詞を読むと、バーニー・トーピンの詩とエルトン・ジョンのメロディーが不思議にハーモナイズしているのです。


 今回の映画では、初期の頃の歌で大好きな「Border Song」も入っていましたが、この歌は字幕がなかったので、その詩を考えてみたいと思います。

 歌詞の最初が「Holy Moses」(聖なるモーセ)と投げかけています。
モーセとはエジプトで奴隷だったとされるユダヤ人を脱出(Exodus)させ、40年間も砂漠を彷徨い、パレスチナの地(ジェリコ)に導いたユダヤ民族のリーダーです(本人はジェリコに入る直前のネボ山で死去)。

 なぜ、最初にモーセなのでしょうか。

 英語で「gentile」という言葉があります。これは(ユダヤ人にとっての)キリスト教徒、異邦人、非ユダヤ人(教徒)などの「異邦人」を指します。

 エジプトにいたユダヤ人はエジプト人からすると異邦人になります。モーセはエジプトでは支配階級にいましたから、ユダヤ人奴隷のような異邦人の感覚は持ち合わせていなかったはずです。エジプトをExodusしたモーセは40年間砂漠を放浪することで偶像崇拝者の世代交代を図り、十戒を受け入れた人だけをヨシュアに引き継ぎ、ジェリコの街に攻め込ませました。そして当時、ジェリコに住んでいた人たちは民族浄化され(ヨシュア記)、モーセに引き連れられてきた12部族は自分たちの国を持つことができた訳です。

 さらに「gentile」はユダヤ人のイエス・キリストからパウロに飛びます。
 ユダヤ教はイエス・キリストにより原始キリスト教を生み出し、イエスの死後、弟子のペトロやイエスの兄弟のヤコブによりエルサレム教会派と呼ばれる分派が生まれました。ユダヤ人には律法である割礼、食物規定(生き物の肉は血抜きする律法)があり、エルサレム教会派はそれを遵守することが必須だと考えていました。

 しかし、シリアのアンティオキア教会にいたパウロはそれらの律法を守らずともイエスの教えを信仰することができるとして、gentile(非ユダヤ人である異邦人)にキリスト教を伝道しました。現在のようにキリスト教が世界宗教となったのはパウロの功績が大きく、キリスト教をパウロ教という人がいるくらいです。

 次に続く言葉が「I have been removed」で、「removed」(排除した)でなく、排除された(be removed)のです。つまり、自分の国を何らかの理由で脱出(Exodus)せざるを得なかった人が異国の地で異邦人として生きていたが、何らかの理由で排除されてしまった訳です。
 そして、次のパラグラフでは「I have been deceived」とあるので、そこで騙されもしました(been deceived)。
 さらに、次のパラグラフでは「I'm going back to the border」となるので、排除され、騙されたので、国境(Border)に帰るつもりだ、とあり、「I can't take any more bad water」「I've been poisoned from my head down to my shoes」もうこれ以上この異国の地で汚い水は飲めず、身体中に毒がまわった、とまで言っています。

 実はここまでがバーニー・トーピンの詩で、その次からはエルトン・ジョンが付け足したもののようです。基本的に彼らの曲作りは、詩をバーニー・トーピン、曲はエルトン・ジョンと分業が基本だと思いますが、この歌のバーニーの詩の意味は、彼の生まれ故郷がイギリスの片田舎で、ロンドンという都会に出てきて「排除され」「騙され」、ロンドンの水は汚く、故郷に帰りたい、という意味でのBorder Songだったようです。
 しかし、最初に「Holy Moses」とモーセに呼び掛けていることもあり、以下のようにエルトン・ジョンが加えた詩によって、ゴスぺルソングのような趣に仕上がっています。
 
 エルトン・ジョンの詩は「Holy Moses let us live in peace」にあるように、私たちは平和に暮らしましょう、「Let us strive to find a way to make all hatred cease」私たちはすべての憎しみがなくなる道を探す努力をしましょう、「There's a man over there what's his color I don't care」そこに(異国に)いる人の肌の色が何であっても、私は気にしない。「He's my brother let us live in peace」彼は私の兄弟、平和に暮らしましょう、と締めくくっています。

 私が適当に訳したものですが、日本語訳を見ながら曲を聴くと「詩とメロディー」が実に合っているのです。

Holy Moses I have been removed
聖なるモーセよ、私は排除されてしまった
I have seen the specter he has been here too
私はこの場所にも、心に浮かぶ恐ろしいものがあることを知りました
Distant cousin from down the line
遠く離れた国境を越えたところに従兄弟もいるけど
Brand of people who ain't my kind
ここにいる人々と、私とは違う人たち
Holy Moses I have been removed
聖なるモーセよ、私は排除されてしまった

Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私は騙されてきました
Now the wind has changed direction and I'll have to leave
今、風向きは変わり、私はここから去らねばなりません
Won't you please excuse my frankness but it's not my cup of tea
どうか私の素直な思いをお許し下さい、しかし、それは私が好んでいる訳ではありません
Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私は騙されてきました

I'm going back to the border
私はこの国境を超えていくでしょう
Where my affairs, my affairs ain't abused
そこにはなすべき仕事があり、私の仕事は悪用されることはありません
I can't take any more bad water
私はもうこれ以上、汚い水を飲むことはできないのです
I've been poisoned from my head down to my shoes
私は既に、頭の上から足の先まですっかり毒されています

Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私はずっと騙されていました
Holy Moses let us live in peace
聖なるモーセよ、私たちに安らぎを与えてください
Let us strive to find a way to make all hatred cease
私たちに全ての憎しみがなくなるよう、努力するための道を示してください
There's a man over there what's his colour I don't care
そこにいる者の肌の色が何であろうとも、私は気になりません
He's my brother let us live in peace
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。
He's my brother let us live in peace
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。
He's my brother let us live in peace 
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。


 前半のバーニー・トーピンの詩はユダヤ人の選民的な思想(モーセの十戒、エルサレム教会派の律法へのこだわり)に対する嫌味をモーセに対して訴えているのでしょうか。後半のエルトン・ジョンの詩ではモーセに懇願しつつ締めくくっています。

 この歌をアメリカに渡り移民として暮らすヒスパニック系の人が聞いたらどう思うのでしょうか。シリア難民となり、ドイツに暮らしている移民はどう思うのでしょうか。6日戦争でイスラエルに追い出されヨルダン川を渡りヨルダンに移住した人やレバノンで難民となった人はどう思うのでしょうか。ユダヤ人が入植することで土地を失ったパレスチナ人はイスラエルの占領地でどう思うのでしょうか。そして、日本にいる外国人労働者はどう思うのでしょうか。

 何らかの事情で異邦人になった人たちで、排除され、騙され、希望を失い、この歌のようにBorder(国境)に戻ることができる人はいいのでしょうが、戻れない人も世界にはたくさんいます。

 Border Songはクイーン・オブ・ソウルと呼ばれるAretha Franklin(アレサ・フランクリン)にもHoly Mosesとしてカバーされています。公民権運動にも関わった彼女が歌うと完全なゴスペルソングとしての説得力がありますね。


 ちなみに、エリック・クラプトンのカバーもあります。

 

 中学生の頃から聞いていた音楽を聴くと、自分自身のストーリーが頭をよぎってきます。

 自分の中で、生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)から出ようと思ったのは、排除されたり(be removed)、騙された(been deceived)訳ではありませんが、どこか自分は浮いているな、という疎外感のようなものを感じ、この地では「壁」を超えられない、と思ったからです。次に名古屋で会社を作り仕事を続けましたが、この地でも自分は浮いていると感じ東京に引っ越し、現在に至っています。

 1970年に発売されたBorder Songは、現在のグローバルで大きな問題である移民・難民(異邦人)の共通課題を浮き彫りにしているが故に、現在の自分に染み込む詩とメロディーなのです。

 日本ではじめて発売されたシングルはこのBorder Song(全米ビルボード92位)で、日本語訳は「人生の壁」と訳されていました。

 この映画を観て、はじめて、「Captain Fantastic」と「Brown Dirt Cowboy」の曲をひとつ自分で翻訳してみましたが、ひとりではなく、二人だからこそ成し得ることは大きいものだ、と改めて実感しました。

2013/07/20

【UK】ロンドンとプロテスタントのアン・ブーリン


 7月16,17,18日と、ヤボ用でロンドンに行きました。
 ロンドンはオリンピックの前の2009年にスイスのルツェルンにトレッキング(ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル)に行く折にロンドン経由で1泊しただけなのですが、今回は2泊4日。
 ホテルがタワーブリッジの近くだったので、ホテルに到着するとすぐに散歩に出かけ、テムズ川のタワーブリッジの写真を撮りました。
 対岸で工事をしているホテルは、以前に泊まったホテルで建て替え中です。その時はオリンピック前で改修工事のためタワーブリッジには工事テントがところどころ掛かっていたのですが、今回きれいに改修され全体を見ることができました。
 テムズ川の川辺を散歩すると、川風が心地よく、「ポンドが高い、料理が○○い、雨が多い」という印象を拭い去ってくれます。


 翌日は、お決まりの観光スポットを目指そうと、タワーブリッジからロンドンブリッジ、ビックベンに行こうと歩きだしましたが、一向にビックベンの時計が見えて来ません。
 途中住宅街で大好きな紫陽花を発見しました。住宅街を抜けテムズ川沿いに戻り、遠くにビジネス街が見えます。テムズ川沿いに向いたマンションは全てべランダがあり、ビタミンDを補給するため水着で日光浴をする人などがいましたが、川辺は人がほとんどいない閑静な風景です。
 しかし、写真にあるようにビックベンはどこにも見当たりません。


 ここではじめて逆方向であることに気が付き、コースを戻りましたが、すでに30分以上歩いていたので、ビックベンまでの道のりが長いこと長いこと(笑)



 気温は33℃から34℃だったので、暑い暑いロンドンです。写真はウエストミンスター宮殿とウェストミンスター寺院。教会はその街のシンボル的な存在なので、たいてい入館するのですが、この寺院はイングランド国教会であり、聖ペテロ修道教会とのことで、ややこしそうだったので入館はしませんでした。


 お次のバッキンガム宮殿を目指して歩いていたら、王室一家のお出ましです(笑)。
 こんなこと日本でやったら不敬罪で捕まってしまうのでしょうか?ロイヤルベイビーも間近なので、学生のユーモアなのでしょうか。。
 このロイヤルファミリーは笑いながらよく動くので、なかなか全員がこちらを向いた写真が撮れず、何枚も写真を撮った中での1枚です。


 バッキンガム宮殿前には各TV局のテントが並んでいます。ロイヤルベイビーが生まれたときにアナウンサーのバックにバッキンガム宮殿を写したいのでしょう。
 かなり小さいですが、キットカットチョコレートのTVコマーシャル(大昔のCM)に出演していた赤い制服の二人の衛兵が、34℃の炎天下警備をしている姿が見えるでしょうか?二人を写さないと失礼かと、かなり横からのアングルで写したものです。

 その日は逆方向に行ったため炎天下で5時間のウォーキングをしてしまいました。先週、尾瀬で足の筋肉を鍛えてあったので、たいした疲れでないのですが、靴が普通のシューズなので足の裏が痛く辛かったです。
 最終日の午前中にロンドン塔を訪れました。ここも前回はオリンピックに向けての改修工事中で、入館できなかったところです。

 ロンドン塔の中世の位置付けは、

 『このタワーは、ロンドンを守り、あるいはロンドンを支配する城砦である。議会を開き、協定を結ぶ王宮である。最も危険な犯罪者を監禁する牢獄である。この時代に全イングランドの硬貨を鋳造する唯一の造幣所である。戦争に備えるための兵器庫である。装飾品と王室の宝石を納める財宝保管庫である。ウェストミンスターの国王の法院の大部分の記録文書を保管する公文書館である。』


 私の中でのイギリスの歴史は、DVDで「チューダーズ」「エリザベス」を観た知識ぐらいしかありませんが、ヘンリー8世は梅毒だったと、日本医薬品情報のサイト(梅毒で無くなったヘンリー8世の妻達について)に紹介されています。
 女性関係も華やかで、ロンドン塔に展示されていたヘンリー8世の鎧は拡大すると分かるように下半身を大切に守ってあり、笑ってしまいました。


 ヘンリー8世の女性関係の中で最もイギリスの歴史に影響を与えた妻(愛人)はフランス人のアン・ブーリンです。彼女はこのロンドン塔のタワーグリーンで処刑されました。その場所にこの座布団のようなモニュメントがあり、処刑された人たちの名前が書かれています。正面がアン・ブーリン、5番目の妻のキャサリン・ハワードの名もあります。


 プロテスタントのアン・ブーリンとの結婚を反対したカトリックのトマス・モアもここで処刑されています。ウォッカをベースにした赤いカクテルのブラディー・マリーの名称はヘンリー8世の最初の妻で敬虔なカトリック信者キャサリンの子供であるメアリーが王位を継承し、プロテスタントの粛清(凄惨な)を行ったことから名付けられたものです。
 そして、次の王となったアン・ブーリンの子供エリザベス1世は、イングランド国教会をローマ教皇(カトリックの総本山)から独立させたのです。

 その後のピューリタン革命、メイフラワー号によるアメリカ大陸への旅立ちへと流れは続きますが、

「最初の起点は、アン・ブーリン」

なのではないでしょうか。


2009/08/05

【Switzerland】ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル


 マイルを貯めている航空会社がJALなので夏休みの目的地であるスイス(チューリッヒ)直行便がなく今回はロンドン経由となりました。他にもパリ、ミラノ、ローマ経由などもあるのですが、今働いている会社の上司もロンドンにいることですし、1度ロンドンに泊まってもいいかと、1日の滞在・観光をしました。窓からタワーブリッジが見えるホテルだったのでビックベンまで歩き、バーでフィッシュアンドチップスを食べ、翌日は大英博物館の観光です。

 ロンドンはあいにくの雨で、寒いロンドンの夏を経験することができました。イギリス人はスペインにたくさんの別荘を買いスペインが不動産バブルとなり、今回の世界金融危機で大変な様子ですが、この夏の寒さから暖かいところで太陽にあたりたい気持ちも分からない訳ではありません。

 大英博物館のエジプトのミイラなど無料で展示物が見れますが、剥奪の歴史を感じます。また、直接的にイギリスの階級社会に悩ませれたことはありませんが、街の隅々に社会階級を感じます。ロンドンの雰囲気も分かり、今回の目的のスイスに移ります。


 スイスはスイスパス(スイス人は購入できない)という日本の青春18切符のような鉄道パスがあります。特別な登山電車などは別にして大抵の電車でスイスパスが使え便利です。チューリッヒからピラトゥス山の麓のルツェルンまではこのスイスパスで電車移動です。

 ルツェルンはカペル橋が有名ですが、木造の古い橋にも関わらず、観光客はもちろん、通勤にも利用されているようです。ピラトゥス山にピラトゥス鉄道で登りましたが、残念ながらガスで真っ白。中央スイスからのアイガー、マッターフォルン、モンブランは眺めることはできませんでした。山の天気は変わりやすく翌日の移動の日のピラテゥス山は見事な晴れでしたが、次のインターラーケンに移動です。


 インターラケン・オストの駅からヴェンゲンへ行き、そこからロープーウェイでメンリッヒェンへ。このメンリッヒェンからクライネ・シャイデックまでのトレッキングコースは1時間半程度ですが、アイガー北壁は真正面にあり最高の眺め(お勧め)でした。

 ユングフラウ鉄道の始発駅クライネ・シャイデック駅にはアイガー北壁を登る人のサポーターが泊まる山岳ホテルがあり、今回はこの宿(Bellevue Kleine Scheidegg)ひとつめの拠点にしました。クリント・イーストウッドの「アイガー・サンクション」という映画でもサポーターがこのホテルから望遠鏡で北壁を登るクリント・イーストウッドを見ているシーンがあります。

 クライネ・シャイデックは標高2000mぐらいで、アイガーはこの駅から2000mプラスし4000mの山です。アイガーは他の山と違い夏でも冬でも真っ黒な山です。垂直のため雪すら積もらず、氷が張り付いている北壁なのです。そこに一箇所「白い蜘蛛」(White Spider)氷が溜まった跡が「蜘蛛」のような場所が頂上付近にあります。そこは最難関と言われ、ここで遭難した登山家、渡部恒明さんと高田光政さんの実話が新田次郎の「アイガー北壁」という短編小説です。

 また、「白い蜘蛛」というテーマでアイガー北壁を最初に突破したオーストリアのハインリッヒ・ハラーが著者を出しています。第二次大戦中にインドで英国の捕虜からヒマラヤに逃げ、そこで出会ったダライラマ14世の幼少時代の交流は「セブン・イヤーズ・イン・チベット」という映画にもなりました。

 クライネ・シャイデックで山の天気を見ながら3400mのユングフラウヨッホ駅まで電車で行き、メンヒヒュッテまで雪の上を歩きました。メンヒはアイガー、ユングフラウと並ぶ4000m級の山で、その山小屋が3600mぐらいの地点にあります。ヨーロッパの登山は頂上に近い山小屋に一度宿泊し朝早く軽装で頂上を目指し、その日のうちに帰って来るというパターン(アルパインスタイル)多いために、頂上まで4・5時間の地点に拠点となる山小屋があります。

 メンヒヒュッテはメンヒに登る人たちの山小屋ですが、普通のサラリーマンと思われる人たちがどんどんメンヒヒュッテから頂上からロープを抱え軽装で下山してくる光景が不思議な感じがします。メンヒヒュッテではスープをいただきましたが、隣の人が食べていたパンかジャガイモ、トマトなどにチーズを乗せてオーブンで焼いてあり、オプションで目玉焼きの乗った料理(ゲーゼシュニッテ)がうまそうでした。メニューで確認すると3山にちなんで「アイガー」「メンヒ」「ユングフラウ」という名前でバリエーションがありました。

 ちなみにアイガー最初の山小屋のミッテルレギ小屋はアイガー東山麓を初登頂した槇有恒さんが寄付したお金(建築費の50%寄付)で建てられたそうです。その後、ミッテルレギ小屋は新しく建て直され、古い小屋はアイガーグレッチャー駅からのアイガー北壁の横にそのまま展示されていました。

 次は槇有恒さん以来日本人に馴染みの深いグリンデルヴァルト駅にホテルを移ります。「女王陛下の007」の撮影でも有名になったシルトホルンにも行きましたが、なんと言っても今回はアイガー北壁の裾野をトレッキングする「アイガートレイル」がクライマックス。このコースは最近できたようですが、アイガー北壁のすぐ近くを歩くため、アイガー北壁を登頂している人まで見ることができます。

 西の3段目の小山の北壁に4名のロッククライマーがよじ登る姿が点のように見えましたが、叫び声とともに上2名、下2名のパーティーで下2名のうちひとつの点が縦から横になりました。あまりに小さな点ですから何があったかは分かりませんが、事故があったのだと思います。その後4人の点は見えなくなり、3時間のアイガートレイルを終わる頃にヘリコプターが西の頂上を含み3段目の小山の壁付近から救出しているような雰囲気。2回黒い点をヘリが運んでいました、、。詳しくは分かりませんが、近くで見るととても人間が登れる壁ではありません。

 ところが、1969年に6名の日本人(加藤滝男、今井通子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進、原勇)がアイガー北壁を最短垂直コースで突破。本当にすごいことですね。
 アイガートレイルを行い、真近に北壁を見たものしてとても考えることができませんが、日本人ならではのチームワークの成せる技でしょうか。

 アイガートレイルは「アルピグレン駅」で終わりですが、アイガー北壁を目指すクライマーの出発駅はここからが多いようです。アルピグレン駅には有名なケーゼシュニッテのお店(Berghaus Alpiglen)があり、アイガートレイルを思い出しながら、眼下のクリンデルワルドを眺めいただいたのですが、チーズたっぷりでおいしかったです。ラクレットチーズとかエメンタールチーズとかグリュエールチーズをうまく混ぜるのでしょうね。

 今回の旅でグリンデルヴァルトと日本人登山家は古くからつながりがあり日本人観光客が多くいるということが分かりましたが、さすがに団体旅行なのでトレッキングを行っている最中に日本人に会うことは少ないです。

 そしてもうひとつ学んだことがあります。
 アルプスでは30年前にクマが絶滅(スイスで最後に確認されたのは1904年という説もある)にしました。スイスの首都ベルン(アインシュタインが特殊相対性理論の論文を執筆した場所)にあるクマ公園にしかいません。

 第二次世界大戦前にベルン州を中心にクマ肉で作るハンバーガー「ベアバーガー」が普及。その後にチェーン展開されスイス全土に拡大。スイス中でクマが乱獲されたそうです。ベルン州の州旗がクマですから相当数のクマが殺されたと思います。おかげでトレッキング中にクマに遭遇ということもないのですが、、。

 スイスでは両生類の80%が絶滅危惧種(レッドリスト)とか。酪農優先でカエルなども川には住めなくなるのでしょうね。グリュイエールチーズは標高2000m以上の高地の草を食べた牛のミルクからでしか作らないので、森林限界を超えた山々にも牛はいますから、川の水はきれいではありません。
 東ヨーロッパからクマやオオカミが西ヨーロッパに浸透しているようですが、観光立国スイスにクマが戻ることはなさそうです。

 「システム」としては「知床のシステム」(知床五湖とキンキ)の方が上なのでしょうが、自然と経済との共生システムの難しさを感じますね。

 グリンデルヴァルトのホテルのTVで偶然「クマバーガー」の歴史を紹介する番組から得た情報ですが、現地に行くといろいろなことが勉強になります。
 休暇なのですが、次の仕事に役に立ちそうな情報でした。

 最後にアイガー北壁のマッシュルーム(西側の稜線)と呼ばれる岩からBASE Jumpを行った映像で「1800mの垂直の壁」の雰囲気をどうぞ。

※写真はClickで拡大、大英博物館のラムセスⅡ世像、ルツェルンの部屋の窓からのピラトゥス山、池に写る逆さアイガー北壁