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2022/04/30

【Japan】新しき村のエネルギー売電

  GWの4月30日は、武者小路実篤の理念を実践している新しき村(埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫423番地1)を訪ねてみました。ロシアによるウクライナ侵攻以来、イスラエルのキブツを研究しはじめたのですが、日本にもキブツのような村落共同体があり、その中でも、歴史があって、怪しげな宗教的でないコミュニティーとしての新しき村の存在は貴重です。

 財団法人新しき村のWebサイトによると、新しき村は、1918年に宮崎県児湯郡木城村に誕生しました。この村は高い山々に挟まれ、三方を川で囲まれた土地であったため、外部との行き来は舟に頼っていました。約20年後、その地形ゆえに、この地に発電所が建設されることとなり、村の土地の半分がダムの中に沈むことになってしまいました。

 そのため、1939年(昭和14年)、埼玉県毛呂山町に新たな土地4,000坪を得て、「東の村」として再出発することになり、宮崎県の村は、残った土地に2家族が住み、「日向新しき村」として現在もその活動を続けているようです。
 今回私が訪ねたのは、埼玉県の武州長瀬駅から徒歩30分ぐらいにある新しき村です。


 写真は新しき村近くの畑の風景ですが、のどかな春の田畑の風景には心が安らぎます。
田んぼに水を引く季節


 子どもたちが遊んでいます。そろそろこの子どもたちの家族の住む新しき村が近づいてきたのでしょうか。




 新しき村の美術館。拝観料が200円で月曜日が休館とあります。この中には武者小路実篤の書や絵画などが展示されています。


 館内で300円で販売している新しき村を紹介した冊子ですが、この裏表紙には、武者小路実篤が書いた以下のような新しき村の精神が掲載されています。

一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。

一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。

一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽、幸福、自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない。

一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとる事で全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ正しく生きられ、天命(個性もふくむ)を全うする道を歩くように心がける。

一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ全世界の人が實行する事を祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である、我等の兄弟姉妹である。

一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入る事で、入ろうとすることで、それ等の人が本当に協力する事で、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。


 この精神は、「自他共生」という言葉に凝縮でき、もう一言付け加えると「個人も生き全部も生きる」世界だとしています。
 そのために必要なものは、第一、肉体的生命を保つこと。健康な衣食住が必要で、病気のときの用意、天災のときの用意、その他人命を地上に少しでもとどめておくことができるように骨折ることが必要だ、と。
 義務労働は1日6時間とし、自由な時間は各自勝手で良いが、他人の独立性を害しないように、と新しき村での生活のルールや考え方について、武者小路実篤が文学的文章できれいにまとめています。

 この小冊子によると、新しき村ができた頃は、一番若いのが16、17で、一番年上が43、44とあり、武者小路実篤が33歳の頃にできたことになります。

 Wikiにある以下の記述からも、武者小路実篤は、理想のコミュニティーを作ろうとしたのでしょうね。

 武者小路の「新しき村」の構想は中国共産党主席毛沢東に影響を与えたことで知られる。周作人は『新青年』に「日本的新村」という論文を載せ、毛沢東は「新村」に傾倒した。

 東京大学教授の平野聡は、SAPIO2015年6月号で、「白樺派の作家・武者小路実篤は、社会問題を解決して博愛の心を育むため、個人が財産を放棄して共有財産とし、集団生活で平等な共同体を実現する「新しき村」の理想を説いた。中国共産党の国家主席・毛沢東は武者小路の考えに激しく共鳴して、格差が蔓延する中国において、武者小路が実践した平等・博愛精神あふれる「新しき村」を作ろうとして、やがてマルクス・レーニン主義に傾倒した。」としている。

 この小冊子では、新しき村と他の主義として、武者小路実篤は以下のようにまとめています。

 新しき村と社会主義とはどこが同じで、どこが異なるのか。自分は社会主義のことははっきりは知らない。だからどこが同じで、どこが違うか知らない。ただ新しき村と同一なところが社会主義にあればそれは社会主義のいいところで、違う点があればそれは社会主義の悪いところだと思っている。どっちにしろ新しき村の仕事は経済問題を解決するのが目的ではない。第一の目的は人間らしく生きるという点にある。真心を生かすというところにある、正しい生活をもとめるところにある、パンの問題はその解決に従って自ずと解ける問題にすぎない。
 我等は共産主義というよりは協力主義というべきである。人間らしく今の世に生きられるよう協力するのが新しき村の仕事である。
 すべての兄弟姉妹の正しく生きようとする欲求が燃え上がって自ずと出来る村を、新しき村と仮に名づけたのだ。今に新しき町が出来、都市が出来、国が出来ればそれにこしたことはないが、自分たちは少数でも、力弱くとも自らを正しく生かさないでおけない要求からこの生活に入った。社会主義は国家の力を借りようとする傾向がある。自分達は自分達の力で、一人の力でも、二人の力でも正しく生きようとするものの力の集まりでこの仕事をなし、生長してゆこうというのである。
 
 さらに、信仰についても以下のようにまとめています。

 新しき村の信仰はどこにあるのか。
 一言で云えば、人類の真心を通して顕われる力を信仰することである。
 この力に従うことが人間にとって最も強くたしかなことであることを信じることである。この力を他にして我等の頼るものがないことを信じることである。
 人類の真心に従って生きる。人類の真心、自己の内にある真心によって生きる。それに背かずに生きる、そこに安住と、何ものも恐れぬ力を感ずる。
 そのものこそ、真に新しき村の信仰をもつものである。この信仰を本当に持たぬもには迷いがある。新しき村の精神はわからない。この信仰を強くもつものは巌の上に家を建てる人間である。嵐にあっても崩れない。

 私の専門である日本版システム工学では、人間を定式化し「人間=A+BX」としています。「A」は定数項で、人間が生来もっているもの、遺伝的なものとし、変数項の「BX」は語学能力や宗教のように後天的に身につくものとしていいます。もちろん、遺伝的に記憶力が良いというような特性が語学能力を高めることからも「A」と「BX」は混在していて厳密に分けることが実態にそぐわないこともありますが、思い切って割り切り、単純に定式化しています。武者小路実篤が言っている「真心」とは、「人間=A+BX」に当てはめると「A」、つまり、人間が本来持っているものを「真心」だと位置づけ、後天的な宗教教義などで身につけた「BX」とは位置づけていません。

 ちなみに、イスラエルのキブツでは、労働に対するキブツの基本的な概念は、労働が幸福を獲得するための手段ではなく、労働そのものが幸福の源泉で、労働は人間の自己実現の手段であり、創造性の源泉であるとしています。

新しき村の全体図

村人が集まる公会堂

食堂兼集会所

食事時間も決まっている

自由に食べれる野菜(たぶん)


 朝採れのタケノコ(孟宗竹)が並んでいたので、400円の大きなものを1本購入。今晩のおかずの1品にする予定です。



 途中の鶏舎と思われる建物や、何かを飼っていたと思われる建物がありましたが、いずれも現在は、何もやっていないようです。また、子どもたちが遊んでいた近くの大きな建屋も何もなかったのですが、中にいる村民に聞いたら昔鶏卵を出荷していた荷捌き場だったとのこと。結構広く大きな建屋だったので、鶏卵が大きな収入源だったのでしょう。


 鶏舎の隣に大きなソーラーパネルがあったので、村人に用途を聞いたら、東京電力に電気を売電しているそうです。てっきり、村のエネルギーを自給しているのかと思ってしまいました。
 Wikiによると、以下のような状況のようなので、ある意味、新しき村も限界集落(人口の50%以上が65歳以上で、農業用水や森林、道路の維持管理、冠婚葬祭などの集落として共同生活を維持することが限界に近づきつつある集落)と同じ問題を抱えているのかも知れません。

 近年、村内の高齢化が進み、平均年齢は60歳を超えた。鶏卵の値下がりや人手不足で養鶏を止めるなど農業収入の低迷もあり、村の運営が困難になってきている。過去の積立金を取り崩して赤字を補填している。2013年時点の村内生活者数は13人。村外会員は約160人ほど。2018年時点では宮崎で3人、埼玉で8人が暮らしている。


 駅から新しき村に途中の道で、朝採りのタケノコが市価より1、2割安く売っているという看板が数か所あり、その宣伝に釣られてタケノコを購入することに...


 新しい村に行くときは気が付かなかったのだが、帰りの道すがら駅の近くに、タケノコ無料でご自由に、というカゴが。「えええぇ」と思いましたが、ついでに1本もらいました(笑)


 このサイズのタケノコだと鍋に入らず皮付きではアク抜きできそうにないけど、とにかくリュックに担いで帰りの電車に乗り込みました。


 池袋西口(北)の「四季香」で中華ランチを食べましたが、メニューを見てびっくり、アメリカザリガニ、カイコ、ここらまでは良かったのですが、犬肉もあり、本場中華の醍醐味が堪能できそうな店です。


ただいま!


2021/12/20

【Japan】雪の白鳥と愛知工業大学システム工学研究会

 12月18日に田舎に帰省し、母親の面会に行ってきました。写真は、生まれ故郷の岐阜県郡上市白鳥町から見える雪景色の大日ヶ岳です。寒波到来のため予報では60cmの積雪の可能性もある、とあり心配しましたが、薄っすらと雪が被った程度で助かりました。

 特養の面会予約時間より少し早く到着したので、長滝白山神社に立ち寄ってみました。この神社は太平洋側の登山道となる霊山白山の入り口になります。

銀杏が敷き詰められた参拝道
 

 正月明けの6日に毎年この境内で行われる「花奪祭」では、高さ6mの天井から吊るされた5つの大きな花笠(桜・菊・牡丹・椿・芥子)を、人々がやぐらを組んで奪い合います。この花を持ち帰れば、家内安全、商売繁盛になるといわれています。

神社のあちこちに巨木(推定600年


 郡上一揆(宝暦騒動)の犠牲者を祀った宝暦義民碑もあります。この宝暦騒動によって、郡上藩主金森氏が改易され、老中、若年寄といった中枢部の失脚。江戸時代の百姓一揆で唯一農民が勝利したものです。
(母親の出身地である前谷村の定次郎が中心人物のひとり)


 母親との面会が終わり、次は親戚のお見舞いのために岐阜に立ち寄りましたが、長良川を渡る橋から稲葉山(金華山)の岐阜城に夕日が沈む瞬間をとらえることができました。

 その日は名古屋の今池に宿泊し、近くの居酒屋で友人と一杯。その後は高丘に移動し、毎年ボジョレー解禁日にヌーヴォーを欠かさず送ってくれているのに随分ご無沙汰しているBar Bittersを訪れました。

愛知工業大学正門

 翌日は親戚の納骨があり、リニアで豊田市八草に向かいました。納骨が愛知工業大学の裏手にあるお寺だったので、久しぶりに八草駅から大学まで歩いてみました。周囲は森林や畑、田んぼと、生まれ故郷に似た田舎の風景です。

 論理的な数学などが好きだったので、理学部に行きたかったのですが、田舎の高校では、3年間かけて「数学I」を教えて終わるようなところだったので、アルバイトをしながら独学で勉強しました。もともと頭が悪いため、希望の大学には行けず、結局私学で適当に受験したところしか受かりませんでした。当時の私には、東京の大学は都会過ぎて住むにはハードルが高く、生まれ故郷の情景に似たこの大学に行くことにしたのです。

 しかし授業に出てみると、電気とか電子とか、まったく面白くなく、興味も沸かず、パンチカードでFORTRANを実行するとエラーが続出。こういうのはまったく才能がないな、と嫌気がさし、バイトばかりの毎日で留年を繰り返し、23才のときIT企業を創業した機会にDrop out(退学)しました。
 ところが、ひとつだけこの大学に入学して良かったことがあります。それはシステム工学研究会というサークルに入ったことです(1979年頃)。システム工学は「工学の工学」と呼ばれ、建築、土木、電気電子、化学などの専門的な学問を束ねるための学問で、システムエンジニアリングを司る実務的な学問です。つまり、専門家になるためのものではなく、専門のことは薄く浅く理解しつつ、それらを串刺し、束ねるものです。
 これなら、頭が悪く専門家になれない落ちこぼれの私でも生きる道がある、と直感し、システム工学研究会に参加しました。授業にはほとんど出なかったのですが、たまに部室には顔を出していました。そういう意味で、この研究会の顧問の小田哲久先生には本当に感謝しています。
 システム工学は、経営にも、イスラエルのビジネスでも、マーケティングにも、今の仕事にも応用ができ、システム工学屋として40年以上私の仕事を支える「背骨」となってくれました。

システム工学研究会:このサークルが誕生したのは、1976年です。1976年は、Appleが設立した年、カップ焼きそばU.F.O.が発売開始した年、徹○の部屋が放送開始した年でもあります。システム工学研究会の歴史は長く、様々な方が活躍しています。 

日本版システム工学システム工学とは、電気、電子、建築、土木、機械、情報、環境などの違う工学を束ねる「工学のための工学」と呼ばれるもので、大規模で複雑で多くの専門家を必要としたアポロ計画などがシステム工学で為されたことで有名になった方法。オペレーションリサーチ(OR)などもその一種。

* * * *

 母親の面会、岐阜の親戚のお見舞い、親戚の納骨式が無事終わり、新幹線の時間まで、JR名古屋駅の「味仙」に立ち寄りました。

手羽先

青菜炒め

小袋

台湾ラーメン

 ひぇ〜辛い!という料理ですが、名古屋めしは癖になる味が多いため、たまに食べたくなってしまいます。


どこ行っとったん!

おいてけぼりで寂しかったよぉ


 東京に戻ると、いつものように2匹がお出迎え!
 最初は顔を見てコソコソ隠れていましたが、少したつと甘えたり、ヘソ天でアピールです。

2021/06/17

【Japan】美濃国郡上 東氏、遠藤氏、そして竹中半兵衛

 6月14日、15日と有給をとり田舎の母親を訪ねました。コロナが蔓延する前の2020年の1月1日(「何もできなかった50代と長良川鉄道」)以来なので1年半ぶりです。コロナ禍で移動が難しかったこともありますが、母親の特養施設は全員が2度めのワクチン接種も終わり、コロナの蔓延する東京からの訪問者も受け入れてくれました。

 到着してすぐに3年ぶりの墓掃除と墓参り、その後、特養施設を訪れましたが、ガラス越しでの通話ができる電話のようなものでの会話は、ただでさえ聞き取りにくい母親の話がさらに聞き取りにくかったのですが、やはり対面で合うと感情も伝わってくるので、オンライン面談とは違います。
 次回の訪問は正月を予定しています。

    * * * *

 今回の帰省では、美濃国(みのくに)郡上の歴史について、新しい発見がありました。
 私の生まれ故郷の郡上市は飛騨と越前の境に位置した美濃国に属します。郡上が日本の歴史に登場するのは鎌倉時代からで、最初に郡上を支配したのは、関東武士である千葉氏の一族である東氏です。東氏は鎌倉幕府3代将軍の源実朝の近習で、藤原定家流派の和歌を学び文武両道を極めた武将で、承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時に対した兵を挙げて敗れた兵乱)で手柄を立て、山田庄(現在の郡上市大和町)を加領されました。

 こんな田舎の土地をもらっても仕方ないのではないかと思いますが、京都からは岐阜経由のルートと越前経由のルートがあり、当時は人流が交わる地域だったのかも知れません。

 東氏は和歌を詠むために、山田庄(郡上市大和町)の篠脇城の入り口に大きな庭園を造りました。地形を利用した簡素な庭ですが、今までその存在も知らず、今回はじめて訪れたのです。


 庭園の入り口の橋から撮った栗巣川(まるで庭園の一部)。

篠脇山(山城)と一体になった庭園。中心に池がある。

池に流れ込む庭園の小川。

庭園から眺める栗巣川のきれいな水。

 古今伝授の里フィールドミュージアムなどもあり、和歌などに興味のある人は、自然の中でゆっくりと和歌を詠むことができる場所ではないでしょうか。
 また郷土資料の図書館があったので入館してみたら、私が高校3年のときに書いた短編「越佐山」が掲載されている「郡上 第七冊 ’77/’78/’79」という郷土文化誌があり、43年ぶりの発見に驚きです。

 その日は、東氏の庭園のすぐ近くできたマリオットホテル(フェアフィールド・バイ・マリオット・岐阜郡上)に宿をとりました。
 マリオットというと、世界的なホテルチェーンで、私もBonvoy会員として海外旅行で泊まるイメージしか持ち合わせていなかったのですが、日本国内の道の駅に併設した「Fairfield」というサブブランドのホテルを運営しているようです。まさかまさかマリオットホテルが郡上にできるとは思いもよりませんでしたが、隣のやまと温泉やすらぎ館のお湯も良く、ゆっくりすることができました。

 翌朝は、まずは「モーニングコーヒー」ということで国道156号線沿いの喫茶店に立ち寄りました。コーヒーとトースト、サラダ、ゆで卵にスイカのセットで400円。愛知や岐阜ならではの風習ですが、昭和の雰囲気満載の喫茶店で久しぶりにコーヒーを飲みました、というより朝食を食べました(笑)

 大和町から八幡町に移動し、八幡城も訪れました。11代目の東氏が、前述の山田庄(郡上市大和町)から拠点を郡上市八幡町に移し、東氏の300年にもおよぶ長い統治から遠藤氏(戦国時代)、稲葉氏(戦国時代)、井上氏(江戸時代)、金森氏(宝暦の郡上一揆で罷免)、青山氏(江戸時代)と城主が変遷しました。

 赤谷山城の戦いで東氏から遠藤氏に城主が移り、遠藤氏は織田信長に服従しました。ちなみに、高知の山内一豊の妻「千代」は初代遠藤盛数の娘です。


八幡城の入り口に至るもみじの道。秋は綺麗でしょうね。


八幡の町並み(西側)


東京青山の江戸屋敷の木を切ったら現れたという「日本一」の文字。


八幡の町並み(東側)

 この八幡城は司馬遼太郎が「日本で最も美しい山城」(街道をゆく)と表したように、こじんまりした山城にも関わらず、自然の景色と溶け込んでいて、何度訪れても四季折々の美しさが楽しめます。


八幡町の宗祇水。


宗祇水の横を流れる小駄良川。なんて綺麗な水だろう。

 郡上八幡を離れ、美濃国の武将である竹中半兵衛の生まれ故郷(垂井町)に向かいます。


竹中氏の菩提所「禅幢寺(ぜんどうじ)」。


竹中半兵衛の墓。


ここには竹中氏代々の墓がある。

竹中半兵衛の居城跡で石垣と堀が残っている。


竹中半兵衛の像(マスク中)。


五明稲荷神社

 織田信長が殺害を命じた黒田官兵衛の長男である松寿丸(黒田長政)を竹中半兵衛が匿った五明稲荷神社。半兵衛の死後、黒田官兵衛が荒木村重の有岡城から開放された後に、信長の疑いが晴れ、松寿丸は開放されました。
 そのときに植えたイチョウの木は大きく育ちましたが、枯れたため切られてしまいました。しかし、写真にあるように根から新しく枝が生まれています。


西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の陣地。

 ついでに、垂井の隣にある「関ヶ原ウォーランド」に行ってみました。関ヶ原の合戦が古びた人形で再現されています。


田んぼの真ん中にある決戦地。
(岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202)

 今回は、母親を訪ねるだけでなく、美濃国の歴史を鎌倉時代の東氏から戦国時代の遠藤氏、そして西濃垂井の竹中半兵衛を巡ってみました。私の場合、戦国時代なら竹中半兵衛、幕末なら小栗上野介が好きな人物なのですが、彼らの「生きざま」は、清々しく無欲で親近感が湧きます。


ただいま!