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2026/07/04

【Japan】歴史の敗者を祀る「函館」


 6月29日(月)、30日(火)の2日間、初夏の函館を旅してきました。6月1日に漁が解禁となったスルメイカを食べに行くという単純な動機の旅でしたが、思いがけない発見がありました。函館は敗者を祀る街なのです。

 幕末最後の戦争である箱館戦争の終結後、旧幕府軍が去った函館に定着したのは、彼らを打ち負かした「薩長の本流」ではありませんでした。開拓使設置以降、官軍側の人間の多くも赴任は一時的なものにとどまり、街の基盤を築いたのは、全国から一攫千金を狙って集まった移民たちでした。函館の住民にとって、薩長の新政府とは「遠くからやってきて、また去っていった権力」に過ぎず、旧幕府側への記憶を排除する動機は、生活実感としては働かなかったのでしょう。函館を代表する五稜郭に据えられているのは、土方歳三の像です。


  函館は港町です。函館駅のすぐ裏は海なので、土産物屋の入口にはカモメがいます。


 さっそくホテルにチェックインし、夕方4時半頃に函館山を目指し歩きました。五稜郭と函館山の夜景、この2つが函館の観光のメインコースです。

八幡坂

横浜の赤レンガ倉庫そっくり

 長崎、横浜、函館と幕府が開港した港町はどこも坂の街です。坂の途中にロシアの領事館があるのが北海道らしい。ロシアの大学もあります。調べてみると、ロシア極東連邦総合大学(ロシア・ウラジオストク)は、ロシア極東地域を代表する最大規模の総合大学で、かつては北海道函館市に日本で唯一の分校となる「ロシア極東連邦総合大学函館校」が存在していましたが、ウクライナ侵略やそれに伴う入学者数の激減により、同校は2025年度から学生募集を停止しているとのことです。



 ロープウェイで函館山の展望台に到着し、日没を待ちます。その日の日没は7時10分、夜景は7時50分頃からが見頃とのことで、2時間以上ただひたすらに函館の街を眺める時間を過ごしました。以下は、着々と夕暮れに近づいていく様子を捉えたスナップショットです。















 あまりの寒さに7時50分を待ちきれず、7時半頃に撮った夜景が冒頭の1枚です。路面電車に乗り込み函館駅前付近に集まる海鮮居酒屋を目指します。

小ぶりのスルメイカ(不漁のようです)

水蛸刺し

小さなゲソ唐揚げ

生干しコマイ

塩辛で食べるじゃがバタ

ししゃもがメス(北海道人はオスを好むのに)

エビ刺し

いか焼き(焼きすぎで〜す)

縞ホッケでなく真ホッケ

 最後に食べた岩のりのおにぎりが750円なのは驚きました。確かに2人前ほどの大きなおにぎりですが、高すぎます。普通の居酒屋ですが、2人で14,000円ぐらいでした。外国人観光客が増加したためか総じて高いのです。日本人が旅をするなら観光地を避けて、小さな街を訪れた方が満足できるかもしれないですね。

津軽海峡を横断していた連絡船



 翌朝は朝市でまたもや海鮮三昧です。どの店も朝食にぴったりの同じような小丼ぶりが3,500円前後なので、迷いに迷って入ったお店で頼んだ海鮮丼です。

マグロ、ウニ、イクラ

マグロ、ウニ、タラバ

 お店のオーナーらしき人が、カウンター越しに話しかけてくれました。マグロは津軽海峡の対岸にある大間より、函館の方が安いとか、ご出身の八戸のカニは函館より遥かに安いとか、新幹線のおかげで近距離になった両市を比べるのです。そして、八戸の方が日本人にはいいのではないかとまで言うのです。朝市の飯屋のオヤジの発言だからこそ信憑性が高く、外国人化した観光地の姿を嘆いているとも言えます。

 早めの晩御飯でジンギスカンを食べようと思っていると話したら、「あれは札幌の名物で、函館の名物ではない」と言われ、ジンギスカンはやめようと思いつつ、次の観光地である五稜郭に路面電車で移動しました。






 五稜郭タワーに記された歴史にはちゃんと幕府側の責任者の名前もあるのですが、前述したように、函館の至るところにある土方歳三の写真が示す敗者の歴史を祀る函館市民の気持ちを聞いてみたくなりました。

新政府軍の軍艦「朝陽」に搭載されていた大砲

五稜郭の土塁いっぱいに咲いた西洋タンポポ

 結局、現在の日本は、この戦いの勝者である薩長側によって作られたものです。しかしそれは、欧米へのキャッチアップに徹した近代化(西洋化)だったため、いまだにその習慣が抜けきれていません。欧米にあるものはすべて正しく、欧米に追従すべきだという発想から、企業は模倣から脱却できずにいます。そのため、模倣からは有限の価値創造しかできず、独創による無限の価値創造には届かないのだとも言えます。

 敗者の歴史には、2027年の大河ドラマの主人公である小栗上野介もいます。ただし函館の土方歳三のように地域社会から自然に祀られ続けた敗者もいれば、小栗のように明治新政府によって「逆賊」の烙印を押され、長く歴史の表舞台から遠ざけられてから、ようやく光が当たる敗者もいます。小栗の未来構想は明治の父とも言われ、横須賀ドックは現在の日本の製造業のスタートラインとも言えます。2027年を境に、次の時代は、小栗がスタートさせた大量生産という製造業から、企画設計開発から価値創造するプロダクトイノベーションの時代になるに違いありません。そういう意味で、敗者の歴史は残すべきなのでしょう。

2026/02/02

【Japan】出雲縄文ネットワーク 鹿島神宮と香取神宮

北浦の湖上にある鹿嶋神社の一の鳥居


 弥生系ヤマトによる国家支配体制の成立によって、歴史の表舞台から後退していった縄文古層ネットワークの痕跡は、日本列島を九州から関東へと横断する中央構造線(中央構造帯)周辺に鎮座する神社群に見ることができるのではないかと感じています。

(国土交通省サイトより)

 たとえば、九州の幣立神宮(熊本県山都町)、高千穂神社(宮崎県高千穂町)、阿蘇神社(熊本県阿蘇市)。四国では石鎚神社(愛媛県西条市)、大山祇神社(愛媛県今治市・大三島)、伊曽乃神社(愛媛県西条市)。紀伊半島には丹生都比売神社(和歌山県)、熊野本宮大社(和歌山県)、日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)。さらに伊勢神宮(内宮・外宮、三重県)、中部の砥鹿神社(愛知県豊川市)、諏訪大社(長野県)、関東の鹿島神宮(茨城県)、香取神宮(千葉県)へと連なっています。

 中央構造線と神社配置の関係は学術的に確定したものではありません。しかし、もし縄文の人々の中に断層帯特有の地勢や自然の変化を敏感に感じ取る感性があったとすれば、そうした場所に神が降臨する磐座を設け、祭祀を行っていた可能性も想像できます。縄文社会は、強固なヒエラルキーではなく、海を介した水平的なネットワークによって各地が結ばれていたと考えられています。

 その中心が出雲です。出雲から日本海側へは船で筑後(九州)や越(新潟)へ、太平洋側へも航路が開かれていた可能性があります。オオクニヌシを祀る砥鹿神社(愛知県豊川市)や鹿島神宮(茨城県)・香取神宮(千葉県)、さらに縄文時代に東京湾最深部に近かった見沼地域の氷川神社(埼玉県)や鷲宮神社(埼玉県)なども、出雲系の人々の往来と無関係ではないとする説があります。

『古事記』の国譲り神話では、弥生系ヤマト政権が国家統一を進める中で、出雲のオオクニヌシに国譲りを迫ります。その際に派遣されたのが、鹿島神宮に祀られているタケミカヅチノオオカミと、香取神宮に祀られているフツヌシノオオカミです。出雲大社の建築様式が鹿島神宮と共通点を持つことや、鹿島神宮の創建が神武天皇元年(紀元前660年)に遡ると伝えられていることも、両者の象徴的な関係を示唆しています。

 私は個人的に、中央集権的なヒエラルキーよりも、縄文的な水平ネットワークの組織構造に魅力を感じています。その思いもあって、出雲大社(島根県)、宗像神社(福岡県)、砥鹿神社(愛知県)、氷川神社(埼玉県)、鷲宮神社(埼玉県)を訪ね、そして2月1日には鹿島神宮・香取神宮・息栖神社からなる東国三社を参拝しました。


ツングース系の出雲を訪ねて
甥の結婚式で出雲のオオクニヌシを祀る砥鹿神社
出雲族の宗像大社と九州大学と太宰府天満宮
出雲族の鷲宮神社と宇都宮の餃子
蛇の池と日本一の桜回廊「見沼たんぼの桜回廊」(氷川神社)



 

本殿(混んでいたので裏からお参り)

ナマズの頭は鹿島の要石、尾は香取の要石が抑える

地中深くまである要石の先端

水戸光圀は掘ってみた

奈良の鹿は鹿島神社から運んだ

鹿島神社の森の杉の木と楠木はペア共生

 出雲のオオクニヌシに国譲りを迫ったのが、タケミカヅチノオオカミ(鹿島神宮)とフツヌシノオオカミ(香取神宮)です。そして、この2神を導いたのが、アマノトリフネノミコトを祀る息栖神社です。

「トリフネ(鳥船)」という名が示す通り、アマノトリフネノミコトは神々の船を司る存在とされます。『古事記』『日本書紀』では、タケミカヅチらが出雲へ赴く際に同行した神として描かれています。神話では、彼らは海路を進み、出雲の「稲佐の浜」に到着したと伝えられています。

常陸利根川のほとりに立つ一の鳥居


鹿島、香取神宮の御神体はこの2つの井戸とされている

右の井戸(淡水なので鯉)

左の井戸


 江戸時代にも東国三社参りはたいへん盛んで、多くの人々が団体で巡拝していたようです。現在は車で巡るツアーが一般的ですが、当時は船(20人程度のもの)による移動が中心でした。鹿島神宮、香取神宮、息栖神社はいずれも利根川水系に近く、かつては水運の要衝でした。江戸から利根川をさかのぼり、船で三社を巡る「三社詣」は、信仰と行楽を兼ねた人気の旅だったといいます。

 考えてみれば、三社はいずれも海や川と深く結びついた立地にあります。鹿島・香取は古代には入り江に面し、息栖神社も水辺の聖地として成立しています。神話においても、タケミカヅチノオオカミとフツヌシノオオカミはアマノトリフネノミコトに導かれ、船で出雲へ向かったと語られます。そう考えると、東国三社の「本来の入口」は陸ではなく、水だったのかもしれません。船で近づき、水辺から神域へ入る。その動線そのものが、古代から続く信仰の記憶を今に伝えているようにも感じられます。江戸の人々もまた、知らず知らずのうちに、神話と重なる航路をたどっていたのかもしれません。

 次は利根川を渡り、鹿島神宮と息栖神社のある茨城県隣の千葉県の香取神社に移ります。

2月1日なのにすごい賑わい

漆塗りの本殿

ここも裏からのお参り

鹿島神宮同様に要石の先端

最後に「奥の院」

 神社の奥宮とは、本殿よりもさらに奥に位置する、より神聖とされる場所のことを指します。参拝者が通常お参りする拝殿や本殿とは別に、神社の信仰の源流に近い場所として設けられていることが多いのが特徴です。

 とくに山岳信仰を背景に持つ神社では、里にある社殿とは別に、山そのものや山頂が「奥宮」とされている場合があります。たとえば、砥鹿神社では本宮山の山頂が奥宮にあたります。社殿が整備される以前に祭祀が行われていた磐座(いわくら)や禁足地が、奥宮として大切に守られている例もあります。形式的な建築物よりも、神が宿ると感じられた自然の場に近い場所こそが、本来の聖域であるという感覚がそこにはあります。奥宮とは、制度化された宗教施設の“奥”にある、より原初的で根源的な聖域だと言えるでしょう。そこには、日本人の自然観や神観念の古層が、静かに残されています。


■ 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)

創建:神武天皇元年(紀元前660年)

祭神はタケミカヅチノオオカミ

■ 香取神宮(千葉県香取市)

創建:神武天皇18年(紀元前643年)

祭神はフツヌシノオオカミ

■ 息栖神社(茨城県神栖市)

創建:応神天皇年間、あるいは神武朝期とする説がある

祭神はアマノトリフネノミコト


 今回は「東国三社ツアー」という日帰りバスツアーに参加しました。鹿島神宮・香取神宮・息栖神社を巡ることで、関東地方に残る出雲系の痕跡に触れることができました。

 縄文の古層に見られるのは、首長を絶対化しない水平的なネットワークです。一方で、弥生期以降に成立したヤマト政権は、天皇を中心とする垂直的ヒエラルキーを築いていきました。この2つの力学は、神社の在り方にも色濃く残っているように思えます。たとえば、出雲大社や諏訪大社のように「大社」と名の付く神社があります。これらは、古い地域ネットワークの中心的存在を示しているとも解釈できます。これに対し、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮のように「神宮」と称される神社は、天孫系の神話と深く結びつき、ヤマト王権の正統性を象徴する存在です。そして全国に広がる「◯◯神社」という名称は、その両者の重層的な歴史の中で位置づけられてきました。

 日本を統合した弥生系のヤマト政権は、出雲に象徴される縄文的ネットワークを完全に消し去ったのではなく、その上に新たな秩序を「上書き」する形で統合していったのではないでしょうか。東国三社を巡りながら、そうした歴史の重なりを体感しました。

 そしてこの構図は、現在(2026年2月)の政治状況にもどこか重なって見えます。石破茂氏(出雲の隣の鳥取出身)が志向する他国・他党との水平的ネットワーク重視の姿勢と、高市早苗氏(中央集権が完成した奈良出身)が強調する国家主権や中央集権的秩序の重視というスタンスは、あたかも出雲的な水平性とヤマト的な垂直性の対比のようにも映ります。神社を巡ることで、日本の深層に流れる水平と垂直、ネットワークとヒエラルキーという2つの力学が、古代から現代までさまざまな形で現れていることを改めて考えさせられました。

 あとは長野県の諏訪大社を巡れば、出雲に連なる出雲縄文ネットワークの広がりを、ほぼ体感したことになるでしょう。

 諏訪大社は、出雲大社と並んでオオクニヌシ神話と深く関わる建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀っています。『古事記』では、国譲りの後に建御名方神が諏訪へ退いたとされており、出雲と信濃が神話的に結ばれていることがわかります。地理的には離れていても、神話と祭祀のネットワークによって一本の線でつながっているのです。

 また、諏訪大社には本殿を持たない上社前宮や、御柱祭に象徴される古層的な祭祀形態など、自然崇拝や縄文的世界観を想起させる要素が色濃く残っています。中央集権的な神宮とは異なる、土地に根差した信仰の力強さを感じさせる存在です。東国三社を巡り、そして最後に諏訪を訪れることで、出雲から関東、そして信濃へと広がる精神的ネットワークの輪郭がより鮮明になるはずです。それは単なる神社巡りではなく、日本の深層にあるもう一つの秩序原理を体感する旅でもあるのだと思います。