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膨大な銅剣・鉄剣 |
6月末で仕事が一段落したので、7月3日(月)、4日(火)と、出雲を旅してきました。出雲に興味をもったのは、司馬遼太郎の『歴史の中の日本』(中公文庫)と、古事記の解説書を数冊読んだことが大きな動機です。
西村真次博士の『大和時代』(入手困難)によると、今の中国の黒竜江、鳥蘇里あたりに住むツングース系の民族は、樺太、蝦夷島を発見し、陸奥・出羽、越後を経由し、出雲に進んだ(紀元前1,800年から1,000年の間)と、司馬遼太郎は紹介しています。
また、出雲の郷土研究家の中では、八岐大蛇伝説のオロチは、ツングース系の一派のオロチョン族から名前をとったものだとも言われています。
これは八百万の神が神在月(10月)に集まると言われている「稲佐の浜」です。国譲りが行われた地でもあります。このように、砂浜には黒い砂鉄がたくさん含まれているため、鉄器文化を持つツングース系民族は出雲に落ち着いたと考えられます。
次の写真は、『古代出雲歴史博物館』に展示されていた銅鐸・銅剣・鉄剣・武具です。その他にも、たくさんの鉄器が発掘されています。
オロチョンの鉱業家が、出雲を蛇行して流れる暴れ川、斐伊川の上流で砂鉄を採取し炉で鉄器を作りました。
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まるで八岐大蛇のような流れ! |
古来この川は洪水が起こり、大量の土砂で土地の人々を丸呑みにしていました。スサノオ(アマテラスとツクヨミの弟)は、鉱山業者と農民の間の利害関係を裁き、農民が勝訴しました。鉄器文明から農耕文化に産業構造が転換したのです。
八岐大蛇の尻尾からは霊剣がでてきて、アマテラスの献上しました。これが天皇家の象徴、三種の神器の一つ「草薙の剣」(現在は熱田神宮のご神体)です。
こうしてツングース系の出雲の人たちは、今から3,000年(紀元前1,000年)前から、朝鮮半島経由で、南の方から渡り流入してきた弥生文化と混じり合い、農耕文化を形成していったのです。
日本海をネットワークとする、越(北陸)、そこから内陸に入った諏訪(安曇野には北九州の海の民である宗像氏が住み着いた)、筑紫(ツクシ)などの日本海文化圏ネットワークを形成しました。
古事記には、八岐大蛇を退治したスサノオの子孫、オオクニヌシが出雲王朝を築いたとあります。天孫系の大和王朝は出雲を攻め、オオクニヌシを屈服させました。出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないという協定を結び、出雲王族たちは奈良の三輪山の近くに移住させられました。もともと奈良の三輪山の近くは出雲の植民地で、山全体を神体とする古来の神社です。
司馬遼太郎によると、当然、オオクニヌシは殺され、事実上の神にされてしまったのが出雲大社ということになります。膨大な剣の写真から考えても、素直に「ハイどうぞ」と国を譲ったとは考えにくいです。
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第一の鳥居 |
この第一の鳥居には、出雲の社家の千家(千家國造家、出雲大社宮司家)の名が刻んでありました。これは天孫系の子孫で、オオクニヌシを殺してから、出雲を支配した古代の地方長官の末裔です。
出雲が発祥の「ぜんざい」です。上は焼き餅。神在月(かみあり)のときに人々にふるまっていた餅をジンザイと呼んでいたのを、京都の人がゼンザイと聞き間違えたのが、現在の「ぜんざい」だと言われています。八百万の神は甘いものがお好きなようです。
出雲大社の参道の松の木にアマガエルを見つけました。一生懸命飛び跳ねています。幸運を運ぶ神の使いだといいのですが。
最後の奥の拝殿の裏にはスサノオを祀った「素鵞社(そがのやしろ)」があります。この裏手には出雲大社のご神体と言われる八雲山(禁足地)があります。写真のように一部の岩(パワースポット)を触ることできます。
ちなみに、出雲大社は磐座祭祀(岩などの自然物への信仰)、アマテラス系の伊勢神宮は、禁足地祭祀の違いがあります。自然物(岩や石)そのものを神として祀ったものが最古とされ、禁足地の祭祀に変遷してきたのが日本の神社の歴史です。 参照『神社とは何か』(講談社現代新書)
稲佐の浜でとった砂をここに入れ、ここにある砂を持ち帰り、お守りに入れると、手作りの特別ご利益の大きいお守りになります。
神楽殿は、千家國造家(出雲大社宮司家)大広間です。国旗は日本一大きいらしい。
国譲りの代わりに建ててもらった出雲大社の巨大な柱です。鎌倉時代のものとのこと。諏訪大社はオオクニヌシの息子(次男)が最後まで国譲りを反対し、立てこもって戦った場所です。そこにある「
御柱祭」というのも出雲からの伝統なのかも知れませんね。
玉造温泉の『
千代の湯』で一泊しました。料理は地元料理のコースです。魚のすき焼きとか蒸し物とか、地元のワインとかをいただきました。
翌朝は玉造温泉の『玉作湯神社』にお参り。ここは古代の勾玉製造工場だった場所です。
この後、玉造温泉から車で2時間ほどの石見銀山に向かいました。島根県は、隠岐地方と出雲地方と石見地方の3つに分かれています。
車では入れないので、銀山の入り口まではカートで行きます。現在は400人ほどの村ですが、最盛期には20万人が暮らし、神社仏閣が100以上あった石見銀山の街を通過します。
標高で200メートルぐらい上がるので森林の風が冷たくなります。
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銀山の一つの入口 |
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合計で600ほど坑道があるそうです |
湿気が多いですが、15℃前後の涼しい坑内です。鉱脈に沿って掘り進んだ跡がいたるところにあります。
外に出ると紫陽花がまだ美しく咲いています。
石見銀山でしか買えないお土産「
げたのは」です。お菓子を二枚重ねて叩き合わせるとカランカランと音がするからだそうです。
最後は、出雲蕎麦の遅いランチを食べました。江戸時代初期、松江藩・松平家初代藩主松平直政公が信州松本藩から移ってきた際に、そば職人を連れてきたことから出雲地方にそばが広まったといわれています。
また、別にまとめますが、ツングースの出雲の歴史から日本の現在を見通すことができたような気がします。それにしても湿気が多く出雲は暑かった。東京に帰ったら涼しく感じました。
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