6月14日、15日と有給をとり田舎の母親を訪ねました。コロナが蔓延する前の2020年の1月1日(「何もできなかった50代と長良川鉄道」)以来なので1年半ぶりです。コロナ禍で移動が難しかったこともありますが、母親の特養施設は全員が2度めのワクチン接種も終わり、コロナの蔓延する東京からの訪問者も受け入れてくれました。
到着してすぐに3年ぶりの墓掃除と墓参り、その後、特養施設を訪れましたが、ガラス越しでの通話ができる電話のようなものでの会話は、ただでさえ聞き取りにくい母親の話がさらに聞き取りにくかったのですが、やはり対面で合うと感情も伝わってくるので、オンライン面談とは違います。
次回の訪問は正月を予定しています。
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今回の帰省では、美濃国(みのくに)郡上の歴史について、新しい発見がありました。
私の生まれ故郷の郡上市は飛騨と越前の境に位置した美濃国に属します。郡上が日本の歴史に登場するのは鎌倉時代からで、最初に郡上を支配したのは、関東武士である千葉氏の一族である東氏です。東氏は鎌倉幕府3代将軍の源実朝の近習で、藤原定家流派の和歌を学び文武両道を極めた武将で、承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時に対した兵を挙げて敗れた兵乱)で手柄を立て、山田庄(現在の郡上市大和町)を加領されました。
こんな田舎の土地をもらっても仕方ないのではないかと思いますが、京都からは岐阜経由のルートと越前経由のルートがあり、当時は人流が交わる地域だったのかも知れません。
東氏は和歌を詠むために、山田庄(郡上市大和町)の篠脇城の入り口に大きな庭園を造りました。地形を利用した簡素な庭ですが、今までその存在も知らず、今回はじめて訪れたのです。
古今伝授の里フィールドミュージアムなどもあり、和歌などに興味のある人は、自然の中でゆっくりと和歌を詠むことができる場所ではないでしょうか。
また郷土資料の図書館があったので入館してみたら、私が高校3年のときに書いた短編「越佐山」が掲載されている「郡上 第七冊 ’77/’78/’79」という郷土文化誌があり、43年ぶりの発見に驚きです。
その日は、東氏の庭園のすぐ近くできたマリオットホテル(フェアフィールド・バイ・マリオット・岐阜郡上)に宿をとりました。
マリオットというと、世界的なホテルチェーンで、私もBonvoy会員として海外旅行で泊まるイメージしか持ち合わせていなかったのですが、日本国内の道の駅に併設した「Fairfield」というサブブランドのホテルを運営しているようです。まさかまさかマリオットホテルが郡上にできるとは思いもよりませんでしたが、隣のやまと温泉やすらぎ館のお湯も良く、ゆっくりすることができました。
翌朝は、まずは「モーニングコーヒー」ということで国道156号線沿いの喫茶店に立ち寄りました。コーヒーとトースト、サラダ、ゆで卵にスイカのセットで400円。愛知や岐阜ならではの風習ですが、昭和の雰囲気満載の喫茶店で久しぶりにコーヒーを飲みました、というより朝食を食べました(笑)
大和町から八幡町に移動し、八幡城も訪れました。11代目の東氏が、前述の山田庄(郡上市大和町)から拠点を郡上市八幡町に移し、東氏の300年にもおよぶ長い統治から遠藤氏(戦国時代)、稲葉氏(戦国時代)、井上氏(江戸時代)、金森氏(宝暦の郡上一揆で罷免)、青山氏(江戸時代)と城主が変遷しました。
赤谷山城の戦いで東氏から遠藤氏に城主が移り、遠藤氏は織田信長に服従しました。ちなみに、高知の山内一豊の妻「千代」は初代遠藤盛数の娘です。
この八幡城は司馬遼太郎が「日本で最も美しい山城」(街道をゆく)と表したように、こじんまりした山城にも関わらず、自然の景色と溶け込んでいて、何度訪れても四季折々の美しさが楽しめます。
郡上八幡を離れ、美濃国の武将である竹中半兵衛の生まれ故郷(垂井町)に向かいます。
織田信長が殺害を命じた黒田官兵衛の長男である松寿丸(黒田長政)を竹中半兵衛が匿った五明稲荷神社。半兵衛の死後、黒田官兵衛が荒木村重の有岡城から開放された後に、信長の疑いが晴れ、松寿丸は開放されました。
そのときに植えたイチョウの木は大きく育ちましたが、枯れたため切られてしまいました。しかし、写真にあるように根から新しく枝が生まれています。
今回は、母親を訪ねるだけでなく、美濃国の歴史を鎌倉時代の東氏から戦国時代の遠藤氏、そして西濃垂井の竹中半兵衛を巡ってみました。私の場合、戦国時代なら竹中半兵衛、幕末なら小栗上野介が好きな人物なのですが、彼らの「生きざま」は、清々しく無欲で親近感が湧きます。
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