1月29日に遅まきながら初詣に鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れました。源頼朝により鎌倉幕府の宗社とされた神社ですが、横浜からは近く、春の訪れを感じる鎌倉の街を散策しつつ時季外れの初詣を行うことができました。
私の場合、どこの神社に訪れても賽銭を入れてお祈りするのは家族の健康ぐらいですが、何らかのご利益(Give&Take)をお祈りするのが神社と向き合う一般的な日本人の姿です。そしてお盆にはゾロアスター教からの慣習である先祖供養を行います。つまり、日本人は神や仏は「選ばない」という選択をしている訳です。
そういう習慣を持つ日本人のひとりである遠藤周作さんは、母親がクリスチャンのため洗礼を受け、キリスト教を独自解釈し「沈黙」という小説を書き上げ、さらに「死海のほとり」で「同伴者としてのイエスキリスト」という信仰を確立しました。晩年は病と闘いながら「ヨブ記の評論」を書きたいと考えていたようですが、それは果たせず73才で永眠されました。
英国の作家であるグレアム・グリーンが遠藤周作の「沈黙」を高く評価したため海外での評価が高まり、マーティン・スコセッシ監督が苦心して映画化に成功した訳です。
そこで今回は、「ヨブ記について」を私なりにまとめ、映画「沈黙 -サイレンス-」の感想をまとめてみたいと思います。
ヨブ記のあらすじは松岡正剛さんの千夜千冊「ヨブ記(岩波文庫)」に委ねますが、苦難を受ける前のヨブはユダヤ教的(律法)に「正しい人」で幸せな日々を送っていました。その後、ヨブが苦境に陥ると友人たちは、ヨブが苦しむのは罪を犯したからだ、という因果応報的論理で解釈します。しかし、ヨブは自分は正しい行いをしてきたと考えます。Wikiによると因果応報は下記のように解釈されていますが、因果応報をヨブはよい行いをしてきた者にはよい報い、ヨブの友人は悪い行いをしてきた者には悪い報い、と捉えているのです。
日本人は初詣でお賽銭を投げたとき、自分はいつも正しい行いを行っているからよい報いを与えてください、とはお祈りしません。どんな行いをしていたとしても小銭でご利益を求めます。
このヨブと日本人の違いはどこから来るのでしょうか。。。
私は、セム系一神教の神がユダヤ教もキリスト教もイスラームも「人格神」だからこそではないかと考えます(人の人格を持った存在が彼らの神)。その人格(ペルソナ)がユダヤ教、キリスト教、イスラームとそれぞれ違うだけなのです。
そして最後に、人格神は沈黙を破りヨブの前に現れ、ある意味頭ごなしに「わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。」「これは何者か。知識もないのに、神の経綸(秩序をととのえ治めること)を隠そうとするとは。」と一気にたたみこんでしまいますが、ヨブは納得し従います。ヨブ記において人格神は沈黙しておらず、最後に出現することでヨブは納得するのです。
「ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。」
というハッピーエンドの物語です。
しかし、大前提としてユダヤ教やキリスト教においては「民は罪の状態」にあることで「人格神の沈黙」は正当化されています。ヨブが自分が律法的に正しいと考えていたときも苦しんでときも罪の状態ですから、人格神は沈黙しています。さらに、一神教とは人格神が「ひとつ」ですから人が人格神を選ぶことができません。人は人格神が沈黙を破るのを待つしか方法がありません。ユダヤ教を信ずるユダヤ人はもう4000年以上待っています。
キリスト教ではユダヤ教の人格神にイエスキリストと精霊が加わり三位一体と考えます。そして人格神はイエスキリストという人格神をこの世に送り込むことで沈黙を破り、アガペーを説きました。欧米人にとりイエスキリストは人格神そのものであり「人」ではありません。しかし、人格神の沈黙を待ち続けているユダヤ人にとっては「タダの人」です。
遠藤周作さんにとってイエスキリストは人格神というより「人」です。「死海のほとり」では「苦しむ人に寄り添うことしかできない人であり、失敗ばかりする人であり、70kgの十字架に貼り付けになることで、今までの失敗というマイナスの連続を括弧で括り、最後にマイナスを掛け算してプラスにしてしまった人」と捉えられています。これは欧米人の人格神という考え方とはかなり違うため、小説「深い河」ではクリスチャンである大津を通じ異端的考えだと断言しています。
欧米人のクリスチャンにとってはイエスキリストという存在の出現がセム系人格神が沈黙を破ったことになるのでしょうが、日本人クリスチャンには三位一体であるイエスキリストは沈黙したままとしてしか捉えることができず、人格神そのものの存在が消えてしまいます。そこで遠藤周作さんはセム系人格神を以下のように捉えることにしたのです。
「いつもすぐ近くで連れ添ってくれる同伴者=ナザレのイエス(イエスキリスト)」
このことは「沈黙」から小説「死海のほとり」に至ることで、より輪郭がくっきり描かれています。
ヨブ記での人格神はCreator(創造主)ですが、Creatorが存在するか否かは別にして、人間が支配されている自然界の法則は「ニュートン力学」であったり、「相対性理論」であったり、ミクロになると「量子力学」であったり、さらにミクロな「超ひも理論」だったり、ユニバースを基軸に考えれば「強い人間原理」だったり、マルチバースを基軸に考えれば「弱い人間原理」だったり、あるいは個人を基軸に考えれば「運命」であったりします。人格神であるからこそ沈黙という概念が生れてきますが、人格神でなく自然界の法則(Creatorが創造したかどうかは別にして)から考えると、沈黙はあたりまえ、ということになります。
これらの前提で映画「沈黙」を観た感想は3つ。
ひとつは、原作の小説が日本の漁民(百姓)の匂いを描写していたため、本のページから肥溜めの匂いすらイマジネーションできましたが、映画ではそれを感じませんでした。欧米の農家のイメージは牧草地に放牧された牛の糞の匂いであって、それにハエがたかっていたとしても、日本の農村の肥溜めにハエがたかるような感じではありません。遠藤周作さんの他の作品には「匂い」を感じませんから、「沈黙」では意識してそれを描写した(当時の日本の漁民や百姓をイマジネーションさせるため)と思うのですが、映像では「匂い」は伝わりにくいのでしょうね。
二つめは、遠藤周作さんがあるエッセイで、グレアム・グリーンのことを「小説の中で心理的な解説を書くことが欠点だ」と批判していたように、ラストシーンでマーティン・スコセッシ監督はロドリゴの心を具象化させた...。もし遠藤周作さんがこの映画を観たら、原作のように描写せず、読者のイマジネーションに委ねた方がいい、とクレームを出したのではないでしょうか。なぜなら小説「沈黙」では、わざわざ最後のロドリゴとキチジローの生活描写は現代の日本語でなく、江戸時代の古文で記述してあります。マーティン・スコセッシ監督が神父になりたかったという経歴を持つが故の描写なのかも知れませんが、日本人としては、感動に永続性を持たせるならば具象化は不要だと思いました。
三つめは、イスラエルでもヨルダンでも感じることですが、イエスキリストが過ごしたユダの荒野はまったく音のない世界なのです。つまり、Silentなのです。Silentであるからこそ、Creatorの声がイエスキリストのような預言者たち(ナビー)には聞こえるのではないでしょうか。日本の自然環境では海に行けば「波の音」、山に行けば風に揺れる「木々の音」があり、砂漠のように「まったく音がない」という場所はありません。預言者がイマジネーションから聞くものは、まったく音がないからこそ「Creatorの声=人格をもった神の声」になるのであって、もしそこに風に揺れる木々の音や波の音があったら人格を持つものでなく、自然の音からの自然崇拝になり、「Creatorの声=人格神」という発想になりません。
映画の冒頭でまったく音のないシーンがあり、そのときにヨルダンのペトラ付近のホテルに泊まったときの荒野の静寂を思い出しました。日本の自然と比較してみると、日本に人格神が根付かない理由が分かる気がします。遠藤周作さんはそれを日本人に合うように、小説という手段で「いつもすぐ近くで連れ添ってくれる同伴者=ナザレのイエス(イエスキリスト)」と改善しました。そしてマーティン・スコセッシ監督はラストシーンを欧米人に合うように改善し世界に発信しました。
欧米人はそれをどう評価するのでしょうか…(つづく)
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