2019/09/21

【Japan】五色沼・会津磐梯山と郡上凌霜隊

 9月18日から20日まで秋の会津を訪れました。
 初日(18日)は車で5時間かけて裏磐梯レイクリゾートに到着しすぐに、午後2時半からの五色沼のトレッキングコースに参加しました。
 裏磐梯は1888年の磐梯山の水蒸気爆発による山体崩壊を起こし、川が堰き止められ数百の沼ができたものです。表磐梯の猪苗代湖は4万年前の水蒸気爆発によりできたもので、磐梯山は今までに大きな噴火は3回あったようです。


 裏磐梯のトレッキングはガイド付きで沼の特徴や五色沼の自然の状況を解説してもらったのですが、どうやら今年はクマの出没が多く、7月はガイド中に毎日クマに遭遇したそうです。クマに遭遇したときは、クマ鈴を止め、静かにクマの目を睨みながら後ろに下がるのがコツと説明を受けましたが、実際にクマに出会っていないので、不安は残ります。


 写真は天然のアケビで、裏磐梯ではたくさん取れるそうです。磐梯山の山小屋の主人によると、2011年の原発事故以来、山に人が入り山菜やキノコを取らなくなったせいで、食べ物が豊富になり、磐梯山では今まで見なかった猿、鹿、猪などが現れ、従来からたくさんいたクマがさらに増えてしまったとのこと。原発事故がこんな影響を与えているとはまったく知りませんでした...


 翌日(19日)は、早朝から磐梯山トレッキングの開始です。
 この八方台登山口コースは健脚の人で2時間で登頂の初心者コースとサイトなどには書いてありましたが、急で岩場が多く、久しぶりのトレッキングにはなかなかハードなコースでした。


 それに、信じられないことですが、10年ほど利用している登山靴の左足裏底のコムがひび割れ、剥がれてしまったのです。右足の足裏底も危ない状態になっていました。押入れの奥底にしまってあったので、ゴムが乾燥し劣化したのでしょう。
 こんなことは過去経験がなかったので、無事歩いて帰れるか不安でした。



 靴を気にしながら1,818mの頂上になんとか登頂。
 風が強く、寒かったのですが、さすがに360°の眺めは最高です。


 写真にあるように山体崩壊の跡が深く残っており、今後の噴火が気になります。しかし、1888年の噴火後は温泉が噴出しているようなので、ある程度のガス抜きはされているようです。

 裏底がないため左足が滑るのでゆっくり下山し、なんとか登山口に到着したときは靴の裏がほぼ剥がれるところでした。ワイフも久しぶりのトレッキングでしたから、結局午前8時に登頂をはじめ、下山まで6時間半かかりました(健脚の人で4時間弱のコース)。

 会津若松のワシントンホテルに移動し、会津若松市の居酒屋で軽い夕食。


鶴ケ城から眺める小田山

 最終日(20日)は筋肉痛の足を引きずりながら鶴ケ城を観光。
 詳しく知りたかったので、鶴ケ城の城内はボランティアのガイドの人に案内していただきました。その解説によると、新政府軍は小田山(鶴ケ城から直線で1.7km)に布陣し、多いときは日に2,000発もアームストロング砲(飛距離2km)で鶴ケ城に砲弾を撃ち込んだそうです。
 幕末の会津の歴史を考えると、薩長との戊辰戦争、その後の廃城命令から斗南での再興の扱いなど、腹立たしいものがあります。


 江戸時代に私の生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)を支配していた青山藩(4万8千石)は、新政府軍と徳川幕府のどちらが政権をとっても言い訳ができるよう、二股をかけるという戦略をとりました。

凌霜隊(りょうそうたい)やるせない結末~会津戦争を戦った郡上藩士たち

 「新政府に恭順すると見せかけ、幕府を支援する特殊部隊を組織して転戦させる」という郡上藩の生き残り策により、脱藩藩士45名で結成された凌霜隊が組織されました。
 藩からスペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲などの武器も与えられ、江戸家老の息子である17歳の朝比奈茂吉がリーダーとなり会津を目指したのです。
 途中、戦いつつ会津若松城に入り、松平容保(美濃高須藩からの養子)に謁見し、凌霜隊は会津藩所属と認められました。そして、白虎隊とともに西出丸の防衛しましたが、会津藩が降伏。

 そして、その後が惨めなのです。

 猪苗代での謹慎を命じられ江戸護送。郡上藩の預かりとなり、囚人駕籠に乗せられ罪人扱いです。鶴ケ城落城から1年後に新政府からの赦免を受けましたが、凌霜隊は故郷では受け入れられることなく、朝比奈茂吉や多くの凌霜隊の隊士は故郷を去ることになります。

 「明治元年10月12日、投降した凌霜隊員らは郡上藩預けと決し、郡上八幡へ護送されることとなった。 しかし、江戸から伊勢へ向かう途中、乗船した船が難破し、贄浦に上陸、11月17日、元凌霜隊員35名は郡上八幡城下に到着した。 藩では、元隊士を脱藩の罪人として扱い、赤谷の揚屋へ監禁した。赤谷揚屋は湿地に位置し、湿気が多く風通しも日当たりも悪く病気になる者も多かったため、場所の変更を何度も求めたが却下され続け、明治2年5月になって慈恩禅寺の住職らを中心とする城下寺僧の嘆願により城下の長敬寺に移され、元隊員らの苦難は軽減された。藩では当初、元隊員らを処刑するつもりであったが、9月、新政府の命令により自宅謹慎となり、翌明治3年2月19日(1870年3月20日)、謹慎も解かれ、赦免された。 しかし、罪人として処罰された元隊員達に対して周囲の態度は冷たく、元隊士らの多くは郡上八幡を離れた。」 Wiki 凌霜隊より

 郡上という村社会は、自ら組織したにも関わらず凌霜隊を受け入れることがなかった訳です。これは同質性を求める村社会ではよくあることですが、私の大嫌いな田舎の特質です。

 今回の旅のおかげで、孤立無援の会津の人たちとともに戦った生まれ故郷の人たちの足跡に触れることができました。

0 件のコメント:

コメントを投稿