森鴎外 |
以前、横浜市の日吉に住んでいる頃、横浜観光(横浜観光と上海蟹)で、「君が代」の発祥の地が横浜の妙香寺だということを知りました。今回は文京区の森鴎外記念館で、森鴎外の意外な側面を知ることができましたので、まとめておきます。
まずは、バスで根津神社を訪問しました。
根津神社は、1900年前にヤマトタケルが創祀したと伝わる歴史ある神社で、写真のようにたくさんのツツジがあることで有名です。
おみくじを引いてから、団子坂を目指して歩きます。
団子坂を登り切ると、文京区立の森鴎外記念館があります。この地は、森鴎外が30歳のとき(1892年)に住みはじめ、亡くなる1922年まで家族と暮らした家(観潮楼)の跡地です。ちなみに、閉館した上野の鴎外荘は20代の頃に住んでいたところです。
写真は、上野の鴎外荘で書かれたという「舞姫」のモデルであるエリスの像で、森鴎外記念館の外(観潮楼の入り口側)にあります。ご存知のように森鴎外は陸軍医でドイツに留学し、帰国後「舞姫」を執筆(1890年)しましたが、その頃、1度目の結婚(1889)をしています。
ドイツではエリスという女性と付き合っていたようですが、彼女は帰国した森鴎外を追って来日したそうです。
1888年:エリスが来日
1889年:1度目の結婚
1890年:「舞姫」発表
1888年、ドイツ留学から鴎外が帰国して間もなく、はるばるドイツから、気丈にも、たった独りで鴎外を追って来日したエリスという若い女性がいた。森家存続の危機とばかりに、親族一同、彼女を宥めすかして帰国させたと記録にある。明治の始め、国家の未来を背負ってドイツに官費留学した若き鴎外は、探究心と自負心と愛国心を胸に研究に励み、当時の日本人には珍しく欧州の文化にも溶け込んで日々の生活を目一杯楽しんだ。そして永遠の恋人・エリスと出会った。
エリスとの結婚は当時の国状や親族の心情からも到底不可能で、鴎外は親の勧めで、海軍中将赤松則良の長女登志子さんと結婚したが二年と持たずに離婚した。その時の鴎外の心情を伝える資料が、今回、発見されたというのだ。 森鴎外の離婚 鴎外、気性合わず別居 元妻親族の史料見つかる
「舞姫」は、確か高校時代の国語の教科書にもあり、「石炭をば早や積み果てつ。」は未だに記憶に残っている書き出しですが、そのストーリーは、はっきり言って「ダメ男」というイメージしかありませんでした。
「舞姫」あらすじ(3分動画)
エリスを発狂させたのは、ファウストに登場するマルガレーテ(グレートヒェン)からの脚色でしょうが、男を追いかけドイツから来日したエリスはその後どうなったのでしょうかね。
森鴎外記念館の映像コーナーで、森鴎外を研究している文京区出身の女性は、森鴎外が如何にフェミニストであったかを、例をあげて解説していました。今までの私の森鴎外のイメージは、「舞姫」の主人公である豊太郎のイメージだったのですが、今回の森鴎外記念館で、鴎外が意外にもフェミニストだということを発見したのです。
鴎外が女性作家を高く評価していたのをご存じですか?
明治の女流作家といえば一番に挙がるのが樋口一葉です。『たけくらべ』は鴎外が主催する文芸誌『めさまし草』で幸田露伴、斎藤緑雨と3人の合評で絶賛しています。また与謝野晶子にはフランスへの渡航費用の工面を助けたり、『源氏物語』の訳の校閲を援助するなど表現者としての女性への活動に積極的に関わっていました。
また女性の権利を主張する運動にも鴎外は理解と応援をしています。『青鞜』を創刊した平塚らいてうを高く評価し、海外の女性運動を紹介するなど「明治の男」のイメージとはかけ離れた時代の先端を行く溌剌としたカッコ良さを感じます。 妻も作家に! 鴎外は明治のフェミニストでした
次に谷中銀座商店街で鰻を食べ、日暮里に向かって歩きましたが、想像以上に人通りが多いのには驚きました(また数週間後に新型コロナ陽性者が増えそう)。
途中、何匹か商店街の飼い猫を見ましたが、日暮里駅のロゴが猫デザインなので、谷中銀座商店街近辺は猫が多いのでしょうか。
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