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2023/12/16

【Japan】三峰神社と秩父ホルモン

  コロナ禍における外出制限で、近隣の場所に旅をする習慣がつきました。都内のナノツアー、都心周辺へのマイクロツアーなど、思わぬ発見があり楽しいものです。何よりいいのは、手配や準備をすることなく、思いついた時に出かけることができることです。

 今回はワイフの年内の仕事の目処がついたということで、12月15日(金)に秩父へのマイクロツアーです。天気予報は雨でしたが、朝起きて晴れていたら出かけるというゆるい旅です。

 平日に金曜日で、なおかつ雨予報だったので、西武秩父駅までの特急ラビューはガラガラです。 

 約80分で西武秩父駅に到着し、すぐに三峯神社までの特急バスに乗り込みます。


 三峯神社までは90分ほどで到着します。到着後、位置を確認しようと付近の地図を眺めていると、以前に秩父鉄道の三峰口駅から登った御岳山の近くに位置することがわかりました。









 天気は良かったのですが、息が白くなるほどの寒さだったこともあり、荘厳な雰囲気が増します。そんな中、狛犬がじゃれ合う姿もあります。



 三峯神社の両脇にはご神木があります。このご神木が関東最大級のパワースポットと呼ばれている所以のようです。



 日本武尊の像の近くからの眺望は、三峰神社が標高の高い位置(1102m)にあることがわかります。




 参拝を終わり、鳥居付近の食堂で、秩父名物のわらじトンカツととろろそばでランチです。バス停までの帰り道に糞の匂いがするなと思ったら野生の鹿が日向ぼっこをしていました。

 

 バスで西武秩父駅に戻り、駅にできた温泉に入りました。以前は武甲温泉まで行かなければならなかったので、これは助かります。





 イチローズモルトとしゃくし菜のお土産を買って、予約しておいた秩父ホルモンのお店「高砂ホルモン御花畑」に向かいました。









 予約で一杯の有名店でしたが、17:00から18:30の予約がとれました。店には8時で営業終了とあり、大きな声で話すなともあります。店長によると熊谷に食肉市場があり、月、水、金と仕入れているとのことなので、金曜日は新鮮なホルモンが食べれます。驚きは豚ホルモンがさっぱりしていることと、レバーの新鮮さです。

 網に乗せるとすぐに焼けるので、すぐ食べるの繰り返し、ひと盛り100円のキャベツをつまむので、大きな声でしゃべる暇はありません。しかも、1皿がすべて400円とは驚きの安さです。たらふく食べて飲んで二人で5,000円と安い。また最後は、店主が外に出て、私たちがいなくなるまで見送ってくれ、三峯神社から温泉とホルモンの旅は気持ちよく終わり。また、季節の変わり目に訪れることになりそうです。

2023/10/28

【Japan】こんにゃく閻魔の「えんま重」

  ワイフの誕生祝いに鰻でも食べようかと、文京区の名店のいくつかを検討しました。有名なのは神田川沿いの「はし本」、すぐ近くの「石ばし」です。いずれも神田川沿いの老舗ですが、はし本は以前に訪れたことがあり、石ばしの鰻が甘めだということから、こんにゃく閻魔にある「わたべ」に行くことにしました。


 このうな重をみてください。タレ焼きと白焼きが半分半分なのが注文した「えんま重」というわたべのオリジナルなうな重です。この店は江戸鰻の蒸しが評判の店で、はし本のパリッとした感じと対照的です。


 まずは佃煮をつまみにビールを1杯。鰻が焼ける前に店員さんがご飯の量を確認に来ます。300gの重が標準ですが、ワイフは少なめの200gで、私は300gを選びました。


 いよいよえんま重の到着です。ここで驚いたのは薬味があることです。名古屋のひつまぶしのように、最後は出汁でいただく方式なのです。えんま重の全体を把握してみましょう。


 なぜこのうな重をえんま重と呼ぶのかわかりませんが、地獄の閻魔様は白黒つけるからえんま重はタレ焼きと白焼きが乗っているのではないかと、自説を店員さんに確認してみました。店員さんはご存知ないようです。

 白焼きのうな重がこんなに美味しいのかと感動しました。タレ焼きもすっきりした江戸風の味付けで、これは鰻好きにはたまらないオリジナルうな重です。


 わたべのすぐ近くにはこんにゃく閻魔という閻魔様を祀った源覚寺があります。お寺のサイトにこんにゃくと閻魔様のつながりは次のように紹介されています。

「閻魔さまは、冥界にあって亡くなった人の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も知られているひとりです。源覚寺の閻魔さまの右目部分は割れて黄色く濁っています。それにはこんな言い伝えがあります。
 宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。
 満願の日に、老婆の目は治りました。以来、大王の右目は盲目となりました。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを供えつづけたということです。
 このことから、源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています」


 
閻魔様
 
たくさんのこんやくがお供物に

 わたべのえんま重はこの閻魔様が命名由来なのでしょう。


 えんま重の最後の出汁茶漬けはタレ焼きだけでなく白焼きも最高です。300gの御飯の量でお腹一杯になってしまいましたが、幸せなランチでした。文京区のうなぎの名店わたべのえんま重はオススメです。


 江戸川橋から神田川沿いをこんにゃく閻魔まで歩いたので、途中、はし本も写真に収めました。江戸の鰻の老舗はどこも美味しくて、幸せを味わえますね。

2023/07/05

【Japan】ツングース系の出雲を訪ねて

 

 膨大な銅剣・鉄剣

 6月末で仕事が一段落したので、7月3日(月)、4日(火)と、出雲を旅してきました。出雲に興味をもったのは、司馬遼太郎の『歴史の中の日本』(中公文庫)と、古事記の解説書を数冊読んだことが大きな動機です。

 西村真次博士の『大和時代』(入手困難)によると、今の中国の黒竜江、鳥蘇里あたりに住むツングース系の民族は、樺太、蝦夷島を発見し、陸奥・出羽、越後を経由し、出雲に進んだ(紀元前1,800年から1,000年の間)と、司馬遼太郎は紹介しています。
 また、出雲の郷土研究家の中では、八岐大蛇伝説のオロチは、ツングース系の一派のオロチョン族から名前をとったものだとも言われています。


 これは八百万の神が神在月(10月)に集まると言われている「稲佐の浜」です。国譲りが行われた地でもあります。このように、砂浜には黒い砂鉄がたくさん含まれているため、鉄器文化を持つツングース系民族は出雲に落ち着いたと考えられます。

 次の写真は、『古代出雲歴史博物館』に展示されていた銅鐸・銅剣・鉄剣・武具です。その他にも、たくさんの鉄器が発掘されています。






 オロチョンの鉱業家が、出雲を蛇行して流れる暴れ川、斐伊川の上流で砂鉄を採取し炉で鉄器を作りました。

まるで八岐大蛇のような流れ!

 古来この川は洪水が起こり、大量の土砂で土地の人々を丸呑みにしていました。スサノオ(アマテラスとツクヨミの弟)は、鉱山業者と農民の間の利害関係を裁き、農民が勝訴しました。鉄器文明から農耕文化に産業構造が転換したのです。
 八岐大蛇の尻尾からは霊剣がでてきて、アマテラスの献上しました。これが天皇家の象徴、三種の神器の一つ「草薙の剣」(現在は熱田神宮のご神体)です。

 こうしてツングース系の出雲の人たちは、今から3,000年(紀元前1,000年)前から、朝鮮半島経由で、南の方から渡り流入してきた弥生文化と混じり合い、農耕文化を形成していったのです。

 日本海をネットワークとする、越(北陸)、そこから内陸に入った諏訪(安曇野には北九州の海の民である宗像氏が住み着いた)、筑紫(ツクシ)などの日本海文化圏ネットワークを形成しました。

 古事記には、八岐大蛇を退治したスサノオの子孫、オオクニヌシが出雲王朝を築いたとあります。天孫系の大和王朝は出雲を攻め、オオクニヌシを屈服させました。出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないという協定を結び、出雲王族たちは奈良の三輪山の近くに移住させられました。もともと奈良の三輪山の近くは出雲の植民地で、山全体を神体とする古来の神社です。

 司馬遼太郎によると、当然、オオクニヌシは殺され、事実上の神にされてしまったのが出雲大社ということになります。膨大な剣の写真から考えても、素直に「ハイどうぞ」と国を譲ったとは考えにくいです。

第一の鳥居

 この第一の鳥居には、出雲の社家の千家(千家國造家、出雲大社宮司家)の名が刻んでありました。これは天孫系の子孫で、オオクニヌシを殺してから、出雲を支配した古代の地方長官の末裔です。




 出雲が発祥の「ぜんざい」です。上は焼き餅。神在月(かみあり)のときに人々にふるまっていた餅をジンザイと呼んでいたのを、京都の人がゼンザイと聞き間違えたのが、現在の「ぜんざい」だと言われています。八百万の神は甘いものがお好きなようです。


 出雲大社の参道の松の木にアマガエルを見つけました。一生懸命飛び跳ねています。幸運を運ぶ神の使いだといいのですが。







 最後の奥の拝殿の裏にはスサノオを祀った「素鵞社(そがのやしろ)」があります。この裏手には出雲大社のご神体と言われる八雲山(禁足地)があります。写真のように一部の岩(パワースポット)を触ることできます。

 ちなみに、出雲大社は磐座祭祀(岩などの自然物への信仰)、アマテラス系の伊勢神宮は、禁足地祭祀の違いがあります。自然物(岩や石)そのものを神として祀ったものが最古とされ、禁足地の祭祀に変遷してきたのが日本の神社の歴史です。  参照『神社とは何か』(講談社現代新書)


 稲佐の浜でとった砂をここに入れ、ここにある砂を持ち帰り、お守りに入れると、手作りの特別ご利益の大きいお守りになります。
 



 神楽殿は、千家國造家(出雲大社宮司家)大広間です。国旗は日本一大きいらしい。



 国譲りの代わりに建ててもらった出雲大社の巨大な柱です。鎌倉時代のものとのこと。諏訪大社はオオクニヌシの息子(次男)が最後まで国譲りを反対し、立てこもって戦った場所です。そこにある「御柱祭」というのも出雲からの伝統なのかも知れませんね。
 






 玉造温泉の『千代の湯』で一泊しました。料理は地元料理のコースです。魚のすき焼きとか蒸し物とか、地元のワインとかをいただきました。





 翌朝は玉造温泉の『玉作湯神社』にお参り。ここは古代の勾玉製造工場だった場所です。

 この後、玉造温泉から車で2時間ほどの石見銀山に向かいました。島根県は、隠岐地方と出雲地方と石見地方の3つに分かれています。


 車では入れないので、銀山の入り口まではカートで行きます。現在は400人ほどの村ですが、最盛期には20万人が暮らし、神社仏閣が100以上あった石見銀山の街を通過します。




 

 標高で200メートルぐらい上がるので森林の風が冷たくなります。
 
銀山の一つの入口

合計で600ほど坑道があるそうです




 湿気が多いですが、15℃前後の涼しい坑内です。鉱脈に沿って掘り進んだ跡がいたるところにあります。




 外に出ると紫陽花がまだ美しく咲いています。
 

 石見銀山でしか買えないお土産「げたのは」です。お菓子を二枚重ねて叩き合わせるとカランカランと音がするからだそうです。


 最後は、出雲蕎麦の遅いランチを食べました。江戸時代初期、松江藩・松平家初代藩主松平直政公が信州松本藩から移ってきた際に、そば職人を連れてきたことから出雲地方にそばが広まったといわれています。

 また、別にまとめますが、ツングースの出雲の歴史から日本の現在を見通すことができたような気がします。それにしても湿気が多く出雲は暑かった。東京に帰ったら涼しく感じました。