2021/06/17

【Japan】美濃国郡上 東氏、遠藤氏、そして竹中半兵衛

 6月14日、15日と有給をとり田舎の母親を訪ねました。コロナが蔓延する前の2020年の1月1日(「何もできなかった50代と長良川鉄道」)以来なので1年半ぶりです。コロナ禍で移動が難しかったこともありますが、母親の特養施設は全員が2度めのワクチン接種も終わり、コロナの蔓延する東京からの訪問者も受け入れてくれました。

 到着してすぐに3年ぶりの墓掃除と墓参り、その後、特養施設を訪れましたが、ガラス越しでの通話ができる電話のようなものでの会話は、ただでさえ聞き取りにくい母親の話がさらに聞き取りにくかったのですが、やはり対面で合うと感情も伝わってくるので、オンライン面談とは違います。
 次回の訪問は正月を予定しています。

    * * * *

 今回の帰省では、美濃国(みのくに)郡上の歴史について、新しい発見がありました。
 私の生まれ故郷の郡上市は飛騨と越前の境に位置した美濃国に属します。郡上が日本の歴史に登場するのは鎌倉時代からで、最初に郡上を支配したのは、関東武士である千葉氏の一族である東氏です。東氏は鎌倉幕府3代将軍の源実朝の近習で、藤原定家流派の和歌を学び文武両道を極めた武将で、承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時に対した兵を挙げて敗れた兵乱)で手柄を立て、山田庄(現在の郡上市大和町)を加領されました。

 こんな田舎の土地をもらっても仕方ないのではないかと思いますが、京都からは岐阜経由のルートと越前経由のルートがあり、当時は人流が交わる地域だったのかも知れません。

 東氏は和歌を詠むために、山田庄(郡上市大和町)の篠脇城の入り口に大きな庭園を造りました。地形を利用した簡素な庭ですが、今までその存在も知らず、今回はじめて訪れたのです。


 庭園の入り口の橋から撮った栗巣川(まるで庭園の一部)。

篠脇山(山城)と一体になった庭園。中心に池がある。

池に流れ込む庭園の小川。

庭園から眺める栗巣川のきれいな水。

 古今伝授の里フィールドミュージアムなどもあり、和歌などに興味のある人は、自然の中でゆっくりと和歌を詠むことができる場所ではないでしょうか。
 また郷土資料の図書館があったので入館してみたら、私が高校3年のときに書いた短編「越佐山」が掲載されている「郡上 第七冊 ’77/’78/’79」という郷土文化誌があり、43年ぶりの発見に驚きです。

 その日は、東氏の庭園のすぐ近くできたマリオットホテル(フェアフィールド・バイ・マリオット・岐阜郡上)に宿をとりました。
 マリオットというと、世界的なホテルチェーンで、私もBonvoy会員として海外旅行で泊まるイメージしか持ち合わせていなかったのですが、日本国内の道の駅に併設した「Fairfield」というサブブランドのホテルを運営しているようです。まさかまさかマリオットホテルが郡上にできるとは思いもよりませんでしたが、隣のやまと温泉やすらぎ館のお湯も良く、ゆっくりすることができました。

 翌朝は、まずは「モーニングコーヒー」ということで国道156号線沿いの喫茶店に立ち寄りました。コーヒーとトースト、サラダ、ゆで卵にスイカのセットで400円。愛知や岐阜ならではの風習ですが、昭和の雰囲気満載の喫茶店で久しぶりにコーヒーを飲みました、というより朝食を食べました(笑)

 大和町から八幡町に移動し、八幡城も訪れました。11代目の東氏が、前述の山田庄(郡上市大和町)から拠点を郡上市八幡町に移し、東氏の300年にもおよぶ長い統治から遠藤氏(戦国時代)、稲葉氏(戦国時代)、井上氏(江戸時代)、金森氏(宝暦の郡上一揆で罷免)、青山氏(江戸時代)と城主が変遷しました。

 赤谷山城の戦いで東氏から遠藤氏に城主が移り、遠藤氏は織田信長に服従しました。ちなみに、高知の山内一豊の妻「千代」は初代遠藤盛数の娘です。


八幡城の入り口に至るもみじの道。秋は綺麗でしょうね。


八幡の町並み(西側)


東京青山の江戸屋敷の木を切ったら現れたという「日本一」の文字。


八幡の町並み(東側)

 この八幡城は司馬遼太郎が「日本で最も美しい山城」(街道をゆく)と表したように、こじんまりした山城にも関わらず、自然の景色と溶け込んでいて、何度訪れても四季折々の美しさが楽しめます。


八幡町の宗祇水。


宗祇水の横を流れる小駄良川。なんて綺麗な水だろう。

 郡上八幡を離れ、美濃国の武将である竹中半兵衛の生まれ故郷(垂井町)に向かいます。


竹中氏の菩提所「禅幢寺(ぜんどうじ)」。


竹中半兵衛の墓。


ここには竹中氏代々の墓がある。

竹中半兵衛の居城跡で石垣と堀が残っている。


竹中半兵衛の像(マスク中)。


五明稲荷神社

 織田信長が殺害を命じた黒田官兵衛の長男である松寿丸(黒田長政)を竹中半兵衛が匿った五明稲荷神社。半兵衛の死後、黒田官兵衛が荒木村重の有岡城から開放された後に、信長の疑いが晴れ、松寿丸は開放されました。
 そのときに植えたイチョウの木は大きく育ちましたが、枯れたため切られてしまいました。しかし、写真にあるように根から新しく枝が生まれています。


西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の陣地。

 ついでに、垂井の隣にある「関ヶ原ウォーランド」に行ってみました。関ヶ原の合戦が古びた人形で再現されています。


田んぼの真ん中にある決戦地。
(岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202)

 今回は、母親を訪ねるだけでなく、美濃国の歴史を鎌倉時代の東氏から戦国時代の遠藤氏、そして西濃垂井の竹中半兵衛を巡ってみました。私の場合、戦国時代なら竹中半兵衛、幕末なら小栗上野介が好きな人物なのですが、彼らの「生きざま」は、清々しく無欲で親近感が湧きます。


ただいま!

2021/03/14

【Japan】はじめての外泊 中禅寺湖

  3月12日と13日に栃木の日光に1泊旅行に行きました。自分たちで選んだものでなく無料招待されたもので、ザ・リッツ・カールトン日光のスイートルームと食事付きという豪華なものです。
 当初、一番寒い頃の1月末を予定していましたが、新型コロナによる緊急事態宣言で2月に延期、さらに仕事のため3月に延期して今回の日程になりました(栃木は緊急事態宣言は解除中)。


 そして、昨年6月末に我が家の家族になった2匹の猫(笑にゃんこ王国とテレワーク)にとって、飼い主のいない夜をはじめて過ごすことになります。
 写真は洗面所の戸棚の扉を開けたら急に飛び込んでくつろぐ姿ですが、出かける直前の自己アピールに後ろ髪を引かれつつ日光に向かいました(笑)


 東武日光駅でレンタカーを借りて、まずは東照宮に直行。多色で飾られた彫刻や建物には伊勢神宮のような荘厳さはありません。




 男体山の噴火の激しさを物語る華厳の滝と中禅寺湖。中禅寺湖周辺のレストランや土産物屋さんはガラガラ。冬場はオフシーズンなのでしょうが、ゴーストタウン状態です。

 ザ・リッツ・カールトン日光に到着すると高級外車がたくさん駐車されており、ホテル内は人で一杯(若い人)。同じ中禅寺湖畔とは思えない違いに愕然とし、以前の世界大恐慌の状況と変わらないことを実感しました。

 ルディー和子さんのブログ(NOW4 「大恐慌」時代に成功したマーケティング戦略)では、以下のように1929年の世界大恐慌時の消費傾向を分析しています。
 米「大恐慌」時の消費者の所得レベルと購買行動を調べた結果によると、1)生活に困らないレベル以上の所得者は以前と変わらぬお金の使い方をした、2)所得レベルが一番低い層はギリギリの生活レベルに陥落し、3)中間レベルは通常の購買を先延ばしする傾向が高くなった。しかし、商品タイプ別に、恐慌以前の1928年の消費金額が恐慌ピークの1932年にどのくらい下がったかを比較してみると、いまの私たちが思うほどには落ちていない。 消費から考えるポストコロナと女性の消費




 120㎡のスイートルームの広さ、中禅寺湖が目の前に広がる景色、温泉の質は那須の硫黄温泉、ホテルの中だけでゆっくりする人も多いのでしょうね。









 このホテルにはフレンチレストランはなく、イタリアン、鉄板焼、懐石のコースから懐石を選択。久しぶりに健康的な春の和食を楽しむことができました。レストランもホテル内のバーも午後8時で閉まるので、ホテル内は緊急事態宣言に営業時間を合わせているようです。





 朝起きたら雪景色でビックリです。
 というのも、レンタカーなのでスタットレスでない場合、いろは坂を降りるにはリスクがあり過ぎますし、車を置いてバスで帰るか、さらに自腹で一泊追加するしかないな、と焦ってしまいました。レンタカー屋さんの営業がはじまりスタットレスタイヤであることを確認でき、部屋での朝食もゆっくり楽しもことができました。
 


 無事いろは坂を降りて、はじめてのイチゴ狩りに参加しました。紅ほっぺだけでお腹が一杯でランチはパス。


 家に帰ると2匹がお出迎えしてくれました。はじめての外泊も2匹で過ごすことができたようですが、少し寂しそうかな(笑)