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2019/09/21

【Japan】五色沼・会津磐梯山と郡上凌霜隊

 9月18日から20日まで秋の会津を訪れました。
 初日(18日)は車で5時間かけて裏磐梯レイクリゾートに到着しすぐに、午後2時半からの五色沼のトレッキングコースに参加しました。
 裏磐梯は1888年の磐梯山の水蒸気爆発による山体崩壊を起こし、川が堰き止められ数百の沼ができたものです。表磐梯の猪苗代湖は4万年前の水蒸気爆発によりできたもので、磐梯山は今までに大きな噴火は3回あったようです。


 裏磐梯のトレッキングはガイド付きで沼の特徴や五色沼の自然の状況を解説してもらったのですが、どうやら今年はクマの出没が多く、7月はガイド中に毎日クマに遭遇したそうです。クマに遭遇したときは、クマ鈴を止め、静かにクマの目を睨みながら後ろに下がるのがコツと説明を受けましたが、実際にクマに出会っていないので、不安は残ります。


 写真は天然のアケビで、裏磐梯ではたくさん取れるそうです。磐梯山の山小屋の主人によると、2011年の原発事故以来、山に人が入り山菜やキノコを取らなくなったせいで、食べ物が豊富になり、磐梯山では今まで見なかった猿、鹿、猪などが現れ、従来からたくさんいたクマがさらに増えてしまったとのこと。原発事故がこんな影響を与えているとはまったく知りませんでした...


 翌日(19日)は、早朝から磐梯山トレッキングの開始です。
 この八方台登山口コースは健脚の人で2時間で登頂の初心者コースとサイトなどには書いてありましたが、急で岩場が多く、久しぶりのトレッキングにはなかなかハードなコースでした。


 それに、信じられないことですが、10年ほど利用している登山靴の左足裏底のコムがひび割れ、剥がれてしまったのです。右足の足裏底も危ない状態になっていました。押入れの奥底にしまってあったので、ゴムが乾燥し劣化したのでしょう。
 こんなことは過去経験がなかったので、無事歩いて帰れるか不安でした。



 靴を気にしながら1,818mの頂上になんとか登頂。
 風が強く、寒かったのですが、さすがに360°の眺めは最高です。


 写真にあるように山体崩壊の跡が深く残っており、今後の噴火が気になります。しかし、1888年の噴火後は温泉が噴出しているようなので、ある程度のガス抜きはされているようです。

 裏底がないため左足が滑るのでゆっくり下山し、なんとか登山口に到着したときは靴の裏がほぼ剥がれるところでした。ワイフも久しぶりのトレッキングでしたから、結局午前8時に登頂をはじめ、下山まで6時間半かかりました(健脚の人で4時間弱のコース)。

 会津若松のワシントンホテルに移動し、会津若松市の居酒屋で軽い夕食。


鶴ケ城から眺める小田山

 最終日(20日)は筋肉痛の足を引きずりながら鶴ケ城を観光。
 詳しく知りたかったので、鶴ケ城の城内はボランティアのガイドの人に案内していただきました。その解説によると、新政府軍は小田山(鶴ケ城から直線で1.7km)に布陣し、多いときは日に2,000発もアームストロング砲(飛距離2km)で鶴ケ城に砲弾を撃ち込んだそうです。
 幕末の会津の歴史を考えると、薩長との戊辰戦争、その後の廃城命令から斗南での再興の扱いなど、腹立たしいものがあります。


 江戸時代に私の生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)を支配していた青山藩(4万8千石)は、新政府軍と徳川幕府のどちらが政権をとっても言い訳ができるよう、二股をかけるという戦略をとりました。

凌霜隊(りょうそうたい)やるせない結末~会津戦争を戦った郡上藩士たち

 「新政府に恭順すると見せかけ、幕府を支援する特殊部隊を組織して転戦させる」という郡上藩の生き残り策により、脱藩藩士45名で結成された凌霜隊が組織されました。
 藩からスペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲などの武器も与えられ、江戸家老の息子である17歳の朝比奈茂吉がリーダーとなり会津を目指したのです。
 途中、戦いつつ会津若松城に入り、松平容保(美濃高須藩からの養子)に謁見し、凌霜隊は会津藩所属と認められました。そして、白虎隊とともに西出丸の防衛しましたが、会津藩が降伏。

 そして、その後が惨めなのです。

 猪苗代での謹慎を命じられ江戸護送。郡上藩の預かりとなり、囚人駕籠に乗せられ罪人扱いです。鶴ケ城落城から1年後に新政府からの赦免を受けましたが、凌霜隊は故郷では受け入れられることなく、朝比奈茂吉や多くの凌霜隊の隊士は故郷を去ることになります。

 「明治元年10月12日、投降した凌霜隊員らは郡上藩預けと決し、郡上八幡へ護送されることとなった。 しかし、江戸から伊勢へ向かう途中、乗船した船が難破し、贄浦に上陸、11月17日、元凌霜隊員35名は郡上八幡城下に到着した。 藩では、元隊士を脱藩の罪人として扱い、赤谷の揚屋へ監禁した。赤谷揚屋は湿地に位置し、湿気が多く風通しも日当たりも悪く病気になる者も多かったため、場所の変更を何度も求めたが却下され続け、明治2年5月になって慈恩禅寺の住職らを中心とする城下寺僧の嘆願により城下の長敬寺に移され、元隊員らの苦難は軽減された。藩では当初、元隊員らを処刑するつもりであったが、9月、新政府の命令により自宅謹慎となり、翌明治3年2月19日(1870年3月20日)、謹慎も解かれ、赦免された。 しかし、罪人として処罰された元隊員達に対して周囲の態度は冷たく、元隊士らの多くは郡上八幡を離れた。」 Wiki 凌霜隊より

 郡上という村社会は、自ら組織したにも関わらず凌霜隊を受け入れることがなかった訳です。これは同質性を求める村社会ではよくあることですが、私の大嫌いな田舎の特質です。

 今回の旅のおかげで、孤立無援の会津の人たちとともに戦った生まれ故郷の人たちの足跡に触れることができました。

2019/09/07

【UK】Border Songと異邦人

 久しぶりの映画館での映画鑑賞で「ロケットマン」を観ました。
 ご存知のようにロケットマンはエルトン・ジョンの半生を描いたもので、特に初期の頃の歌が満載された映画です。クィーンの「ボヘミアンラプソディー」と比較される映画ですが、ロケットマンはミュージカルになっています。

 生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)にはレコード店はなく、少しだけレコードが置いてある楽器店が1件だけありました。1974年に創刊された「FMレコパル」を創刊号(1974年創刊、1995年廃刊)から愛読しており、そこに掲載されていた新盤アルバムの評価を頼りに、毎月1枚だけ、その楽器店でアルバムを取り寄せてもらっていました。

 当時中学生だった私は、夏休みに電気屋で働いたアルバイト代で購入したコンポステレオ(ONKYOのスピーカー、Pioneerのアンプ、Technicsのプレイヤー)で、そのアルバムを大音量で聴くのが楽しみで、クィーンもエルトン・ジョンも、当時ブームだったプログレッシブ・ロック(ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマーなどなど)もコレクターのようにアルバムを集めていたのです。

 高校生になる頃には、プログレッシブ・ロックも影を薄め、しばらくするとクィーンもブームが落ち着きましたが、エルトン・ジョンだけは定期的にアルバムを出していましたので、聴いていました。英語は聞き取れないのですが、音楽の傾向が聞き流しながら聴けるため、耳障りのないバックグランドミュージックとして聴き続けていた訳です。そのためか、聞き慣れた曲が多く、名古屋でビリー・ジョエルとのジョイントコンサート(1998年)にも行きましたし、東京でも日本武道館でのコンサート(2007年11月)にも行きました。

 特に初期の頃の吟遊詩人と呼ばれていた頃の歌が好きで、翻訳した歌詞を読むと、バーニー・トーピンの詩とエルトン・ジョンのメロディーが不思議にハーモナイズしているのです。


 今回の映画では、初期の頃の歌で大好きな「Border Song」も入っていましたが、この歌は字幕がなかったので、その詩を考えてみたいと思います。

 歌詞の最初が「Holy Moses」(聖なるモーセ)と投げかけています。
モーセとはエジプトで奴隷だったとされるユダヤ人を脱出(Exodus)させ、40年間も砂漠を彷徨い、パレスチナの地(ジェリコ)に導いたユダヤ民族のリーダーです(本人はジェリコに入る直前のネボ山で死去)。

 なぜ、最初にモーセなのでしょうか。

 英語で「gentile」という言葉があります。これは(ユダヤ人にとっての)キリスト教徒、異邦人、非ユダヤ人(教徒)などの「異邦人」を指します。

 エジプトにいたユダヤ人はエジプト人からすると異邦人になります。モーセはエジプトでは支配階級にいましたから、ユダヤ人奴隷のような異邦人の感覚は持ち合わせていなかったはずです。エジプトをExodusしたモーセは40年間砂漠を放浪することで偶像崇拝者の世代交代を図り、十戒を受け入れた人だけをヨシュアに引き継ぎ、ジェリコの街に攻め込ませました。そして当時、ジェリコに住んでいた人たちは民族浄化され(ヨシュア記)、モーセに引き連れられてきた12部族は自分たちの国を持つことができた訳です。

 さらに「gentile」はユダヤ人のイエス・キリストからパウロに飛びます。
 ユダヤ教はイエス・キリストにより原始キリスト教を生み出し、イエスの死後、弟子のペトロやイエスの兄弟のヤコブによりエルサレム教会派と呼ばれる分派が生まれました。ユダヤ人には律法である割礼、食物規定(生き物の肉は血抜きする律法)があり、エルサレム教会派はそれを遵守することが必須だと考えていました。

 しかし、シリアのアンティオキア教会にいたパウロはそれらの律法を守らずともイエスの教えを信仰することができるとして、gentile(非ユダヤ人である異邦人)にキリスト教を伝道しました。現在のようにキリスト教が世界宗教となったのはパウロの功績が大きく、キリスト教をパウロ教という人がいるくらいです。

 次に続く言葉が「I have been removed」で、「removed」(排除した)でなく、排除された(be removed)のです。つまり、自分の国を何らかの理由で脱出(Exodus)せざるを得なかった人が異国の地で異邦人として生きていたが、何らかの理由で排除されてしまった訳です。
 そして、次のパラグラフでは「I have been deceived」とあるので、そこで騙されもしました(been deceived)。
 さらに、次のパラグラフでは「I'm going back to the border」となるので、排除され、騙されたので、国境(Border)に帰るつもりだ、とあり、「I can't take any more bad water」「I've been poisoned from my head down to my shoes」もうこれ以上この異国の地で汚い水は飲めず、身体中に毒がまわった、とまで言っています。

 実はここまでがバーニー・トーピンの詩で、その次からはエルトン・ジョンが付け足したもののようです。基本的に彼らの曲作りは、詩をバーニー・トーピン、曲はエルトン・ジョンと分業が基本だと思いますが、この歌のバーニーの詩の意味は、彼の生まれ故郷がイギリスの片田舎で、ロンドンという都会に出てきて「排除され」「騙され」、ロンドンの水は汚く、故郷に帰りたい、という意味でのBorder Songだったようです。
 しかし、最初に「Holy Moses」とモーセに呼び掛けていることもあり、以下のようにエルトン・ジョンが加えた詩によって、ゴスぺルソングのような趣に仕上がっています。
 
 エルトン・ジョンの詩は「Holy Moses let us live in peace」にあるように、私たちは平和に暮らしましょう、「Let us strive to find a way to make all hatred cease」私たちはすべての憎しみがなくなる道を探す努力をしましょう、「There's a man over there what's his color I don't care」そこに(異国に)いる人の肌の色が何であっても、私は気にしない。「He's my brother let us live in peace」彼は私の兄弟、平和に暮らしましょう、と締めくくっています。

 私が適当に訳したものですが、日本語訳を見ながら曲を聴くと「詩とメロディー」が実に合っているのです。

Holy Moses I have been removed
聖なるモーセよ、私は排除されてしまった
I have seen the specter he has been here too
私はこの場所にも、心に浮かぶ恐ろしいものがあることを知りました
Distant cousin from down the line
遠く離れた国境を越えたところに従兄弟もいるけど
Brand of people who ain't my kind
ここにいる人々と、私とは違う人たち
Holy Moses I have been removed
聖なるモーセよ、私は排除されてしまった

Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私は騙されてきました
Now the wind has changed direction and I'll have to leave
今、風向きは変わり、私はここから去らねばなりません
Won't you please excuse my frankness but it's not my cup of tea
どうか私の素直な思いをお許し下さい、しかし、それは私が好んでいる訳ではありません
Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私は騙されてきました

I'm going back to the border
私はこの国境を超えていくでしょう
Where my affairs, my affairs ain't abused
そこにはなすべき仕事があり、私の仕事は悪用されることはありません
I can't take any more bad water
私はもうこれ以上、汚い水を飲むことはできないのです
I've been poisoned from my head down to my shoes
私は既に、頭の上から足の先まですっかり毒されています

Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私はずっと騙されていました
Holy Moses let us live in peace
聖なるモーセよ、私たちに安らぎを与えてください
Let us strive to find a way to make all hatred cease
私たちに全ての憎しみがなくなるよう、努力するための道を示してください
There's a man over there what's his colour I don't care
そこにいる者の肌の色が何であろうとも、私は気になりません
He's my brother let us live in peace
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。
He's my brother let us live in peace
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。
He's my brother let us live in peace 
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。


 前半のバーニー・トーピンの詩はユダヤ人の選民的な思想(モーセの十戒、エルサレム教会派の律法へのこだわり)に対する嫌味をモーセに対して訴えているのでしょうか。後半のエルトン・ジョンの詩ではモーセに懇願しつつ締めくくっています。

 この歌をアメリカに渡り移民として暮らすヒスパニック系の人が聞いたらどう思うのでしょうか。シリア難民となり、ドイツに暮らしている移民はどう思うのでしょうか。6日戦争でイスラエルに追い出されヨルダン川を渡りヨルダンに移住した人やレバノンで難民となった人はどう思うのでしょうか。ユダヤ人が入植することで土地を失ったパレスチナ人はイスラエルの占領地でどう思うのでしょうか。そして、日本にいる外国人労働者はどう思うのでしょうか。

 何らかの事情で異邦人になった人たちで、排除され、騙され、希望を失い、この歌のようにBorder(国境)に戻ることができる人はいいのでしょうが、戻れない人も世界にはたくさんいます。

 Border Songはクイーン・オブ・ソウルと呼ばれるAretha Franklin(アレサ・フランクリン)にもHoly Mosesとしてカバーされています。公民権運動にも関わった彼女が歌うと完全なゴスペルソングとしての説得力がありますね。


 ちなみに、エリック・クラプトンのカバーもあります。

 

 中学生の頃から聞いていた音楽を聴くと、自分自身のストーリーが頭をよぎってきます。

 自分の中で、生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)から出ようと思ったのは、排除されたり(be removed)、騙された(been deceived)訳ではありませんが、どこか自分は浮いているな、という疎外感のようなものを感じ、この地では「壁」を超えられない、と思ったからです。次に名古屋で会社を作り仕事を続けましたが、この地でも自分は浮いていると感じ東京に引っ越し、現在に至っています。

 1970年に発売されたBorder Songは、現在のグローバルで大きな問題である移民・難民(異邦人)の共通課題を浮き彫りにしているが故に、現在の自分に染み込む詩とメロディーなのです。

 日本ではじめて発売されたシングルはこのBorder Song(全米ビルボード92位)で、日本語訳は「人生の壁」と訳されていました。

 この映画を観て、はじめて、「Captain Fantastic」と「Brown Dirt Cowboy」の曲をひとつ自分で翻訳してみましたが、ひとりではなく、二人だからこそ成し得ることは大きいものだ、と改めて実感しました。

2017/11/02

【Japan】下関のふくと高杉晋作の功山寺挙兵

 失効しそうなJALのマイルとPASMOのポイントをプラスしたら「どこかにマイル」(6000マイル)を活用できたので、10月30日、31日と下関を訪ねることにしました。
 北九州空港から小倉、平家最後の壇ノ浦の下関、高杉晋作が挙兵した功山寺、そして萩の松下村塾までの小旅行でしたが、快晴にも恵まれ楽しい旅になりました。


 最初のランチは小倉で焼うどん。
 小倉の鳥町食堂街の食堂で、焼きそばを作ろうとしたら麺がなく、仕方なく乾麺のうどんを使いソースで味付けをしたのが焼うどんのルーツなのだそうです。焼うどんというと醤油で味付けしたものをイメージしてしまいますが、ルーツはソース味だったのですね。


 軽く小倉城を散策し、電車で関門海峡を通過し下関へ。


 下関の街は韓国と日本の玄関口になるためか、いたるところにハングル文字が溢れています(もし、朝鮮半島で難民が発生したら下関に押し寄せる可能性が高い)。そして、下関と言えば「ふく」(下関ではフグのことを「ふく」と呼ぶ)ということで、夕食はふく料理で有名な大衆居酒屋の「三枡」を訪れました。


 時価で4,500円のふく刺。
 下関ではフグは毒を取り除いた「身欠き」の状態で手に入るためふくをメニューにするお店が多い中、三枡は居酒屋部門で人気ナンバーワンのお店です。


 店内は昭和の雰囲気が溢れ、熟成させ丁寧に仕込まれた名物の「ふく刺」だけでなく、他の刺身も鯨料理も、牛すじ煮込みも鳥の唐揚げも、私たちの舌に合う味で、もし下関を訪れるならもう一度訪ねたい店となりました。


 翌日はレンタカーを借りて、関門海峡を訪れました。
 武士の時代を作ろうとし、貴族のように変質していった平家最後の地が壇ノ浦です。


 安徳天皇の入水の像もあったのですが、あまりにも情緒がない像だったので写真は撮りませんでした(笑)


 関門海峡ではボランティアのおばさんが「ふく物語」という紙芝居を演じていたので楽しく聞かせていただきました。ふくを食べることを禁じたのは豊臣秀吉で、朝鮮出兵の際に兵士が戦う前にふくの毒で死んでしまうので、それを防ぐためふくを食べたら死罪にするという法律を制定したそうです。
 その後、明治維新が終わり初代首相の伊藤博文が故郷山口県の下関の料亭を訪れた際、その日は海が荒れ新鮮な魚が獲れず、仕方なく豊臣秀吉以来禁じられているふくを料理に出すことになったそうです(庶民は隠れて食べていた)。それを食べた伊藤博文は美味しさに感動し、ふく禁止令が解除されたのです。
 紙芝居で学んだふく料理の歴史ですが、旅をするといろいろなことが学べて楽しいものです。


 功山寺の高杉晋作。
 もし、高杉晋作が功山寺で挙兵しなければ明治維新のスイッチが押されることはなく、徳川の時代はもっと長く続いたのかも知れませんね。「人は理屈では動かない」ということを高杉晋作は教えてくれます。



 高杉晋作はたったひとりでも挙兵するつもりだったようですが、80名が集まった功山寺の敷地が意外と広いで、高杉晋作としてはもっと集まると考えていたのかも知れません(笑)


 ついでなので萩の松下村塾まで訪れましたが、世田谷の松陰神社の松下村塾と同じでガッカリ(笑)。ルーツは萩なので当たり前ですが...


 写真は萩の海岸。
 山口県のガードレールがオレンジ色なのは、山口県の長門の海岸に果物の種が漂着し、それを植えて育てたら、できた果物が夏に出来る柑橘だったので「夏みかん」と名付け名物となり、すべてのガードレールが夏みかん色(オレンジ色)に塗られたようです。



 関門海峡からの夕日を眺め、小倉の寿司屋で九州名物のサバ刺しをいただき、この旅は終わりました。

 「どこかにマイル」は4つの候補地から1つだけ選ばれるのですが、今回は札幌、小松、熊本、北九州で、偶然北九州が選ばれたからこそ高杉晋作の心意気に触れれる「功山寺」にも訪れることができ、さらに三枡の「ふく(福)」とも出会うことができました。

2017/01/29

【Japan】鶴岡八幡宮の初詣とヨブ記、そして映画「沈黙 -サイレンス-」


 1月29日に遅まきながら初詣に鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れました。源頼朝により鎌倉幕府の宗社とされた神社ですが、横浜からは近く、春の訪れを感じる鎌倉の街を散策しつつ時季外れの初詣を行うことができました。

 私の場合、どこの神社に訪れても賽銭を入れてお祈りするのは家族の健康ぐらいですが、何らかのご利益(Give&Take)をお祈りするのが神社と向き合う一般的な日本人の姿です。そしてお盆にはゾロアスター教からの慣習である先祖供養を行います。つまり、日本人は神や仏は「選ばない」という選択をしている訳です。

 そういう習慣を持つ日本人のひとりである遠藤周作さんは、母親がクリスチャンのため洗礼を受け、キリスト教を独自解釈し「沈黙」という小説を書き上げ、さらに「死海のほとり」で「同伴者としてのイエスキリスト」という信仰を確立しました。晩年は病と闘いながら「ヨブ記の評論」を書きたいと考えていたようですが、それは果たせず73才で永眠されました。
 英国の作家であるグレアム・グリーンが遠藤周作の「沈黙」を高く評価したため海外での評価が高まり、マーティン・スコセッシ監督が苦心して映画化に成功した訳です。

 そこで今回は、「ヨブ記について」を私なりにまとめ、映画「沈黙 -サイレンス-」の感想をまとめてみたいと思います。

 ヨブ記のあらすじは松岡正剛さんの千夜千冊「ヨブ記(岩波文庫)」に委ねますが、苦難を受ける前のヨブはユダヤ教的(律法)に「正しい人」で幸せな日々を送っていました。その後、ヨブが苦境に陥ると友人たちは、ヨブが苦しむのは罪を犯したからだ、という因果応報的論理で解釈します。しかし、ヨブは自分は正しい行いをしてきたと考えます。Wikiによると因果応報は下記のように解釈されていますが、因果応報をヨブはよい行いをしてきた者にはよい報い、ヨブの友人は悪い行いをしてきた者には悪い報い、と捉えているのです。

「本来は、よい行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがあるという意味だったが、現在では多く悪い行いをすれば悪い報いを受けるという意味で使われている。 」 Wikiより

 日本人は初詣でお賽銭を投げたとき、自分はいつも正しい行いを行っているからよい報いを与えてください、とはお祈りしません。どんな行いをしていたとしても小銭でご利益を求めます。


 このヨブと日本人の違いはどこから来るのでしょうか。。。

 私は、セム系一神教の神がユダヤ教もキリスト教もイスラームも「人格神」だからこそではないかと考えます(人の人格を持った存在が彼らの神)。その人格(ペルソナ)がユダヤ教、キリスト教、イスラームとそれぞれ違うだけなのです。

 そして最後に、人格神は沈黙を破りヨブの前に現れ、ある意味頭ごなしに「わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。」「これは何者か。知識もないのに、神の経綸(秩序をととのえ治めること)を隠そうとするとは。」と一気にたたみこんでしまいますが、ヨブは納得し従います。ヨブ記において人格神は沈黙しておらず、最後に出現することでヨブは納得するのです。

 「ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。」

 というハッピーエンドの物語です。

 しかし、大前提としてユダヤ教やキリスト教においては「民は罪の状態」にあることで「人格神の沈黙」は正当化されています。ヨブが自分が律法的に正しいと考えていたときも苦しんでときも罪の状態ですから、人格神は沈黙しています。さらに、一神教とは人格神が「ひとつ」ですから人が人格神を選ぶことができません。人は人格神が沈黙を破るのを待つしか方法がありません。ユダヤ教を信ずるユダヤ人はもう4000年以上待っています。

 キリスト教ではユダヤ教の人格神にイエスキリストと精霊が加わり三位一体と考えます。そして人格神はイエスキリストという人格神をこの世に送り込むことで沈黙を破り、アガペーを説きました。欧米人にとりイエスキリストは人格神そのものであり「人」ではありません。しかし、人格神の沈黙を待ち続けているユダヤ人にとっては「タダの人」です。

 遠藤周作さんにとってイエスキリストは人格神というより「人」です。「死海のほとり」では「苦しむ人に寄り添うことしかできない人であり、失敗ばかりする人であり、70kgの十字架に貼り付けになることで、今までの失敗というマイナスの連続を括弧で括り、最後にマイナスを掛け算してプラスにしてしまった人」と捉えられています。これは欧米人の人格神という考え方とはかなり違うため、小説「深い河」ではクリスチャンである大津を通じ異端的考えだと断言しています。

 欧米人のクリスチャンにとってはイエスキリストという存在の出現がセム系人格神が沈黙を破ったことになるのでしょうが、日本人クリスチャンには三位一体であるイエスキリストは沈黙したままとしてしか捉えることができず、人格神そのものの存在が消えてしまいます。そこで遠藤周作さんはセム系人格神を以下のように捉えることにしたのです。

 「いつもすぐ近くで連れ添ってくれる同伴者=ナザレのイエス(イエスキリスト)」

 このことは「沈黙」から小説「死海のほとり」に至ることで、より輪郭がくっきり描かれています。

 ヨブ記での人格神はCreator(創造主)ですが、Creatorが存在するか否かは別にして、人間が支配されている自然界の法則は「ニュートン力学」であったり、「相対性理論」であったり、ミクロになると「量子力学」であったり、さらにミクロな「超ひも理論」だったり、ユニバースを基軸に考えれば「強い人間原理」だったり、マルチバースを基軸に考えれば「弱い人間原理」だったり、あるいは個人を基軸に考えれば「運命」であったりします。人格神であるからこそ沈黙という概念が生れてきますが、人格神でなく自然界の法則(Creatorが創造したかどうかは別にして)から考えると、沈黙はあたりまえ、ということになります。


 これらの前提で映画「沈黙」を観た感想は3つ。

 ひとつは、原作の小説が日本の漁民(百姓)の匂いを描写していたため、本のページから肥溜めの匂いすらイマジネーションできましたが、映画ではそれを感じませんでした。欧米の農家のイメージは牧草地に放牧された牛の糞の匂いであって、それにハエがたかっていたとしても、日本の農村の肥溜めにハエがたかるような感じではありません。遠藤周作さんの他の作品には「匂い」を感じませんから、「沈黙」では意識してそれを描写した(当時の日本の漁民や百姓をイマジネーションさせるため)と思うのですが、映像では「匂い」は伝わりにくいのでしょうね。

 二つめは、遠藤周作さんがあるエッセイで、グレアム・グリーンのことを「小説の中で心理的な解説を書くことが欠点だ」と批判していたように、ラストシーンでマーティン・スコセッシ監督はロドリゴの心を具象化させた...。もし遠藤周作さんがこの映画を観たら、原作のように描写せず、読者のイマジネーションに委ねた方がいい、とクレームを出したのではないでしょうか。なぜなら小説「沈黙」では、わざわざ最後のロドリゴとキチジローの生活描写は現代の日本語でなく、江戸時代の古文で記述してあります。マーティン・スコセッシ監督が神父になりたかったという経歴を持つが故の描写なのかも知れませんが、日本人としては、感動に永続性を持たせるならば具象化は不要だと思いました。

 三つめは、イスラエルでもヨルダンでも感じることですが、イエスキリストが過ごしたユダの荒野はまったく音のない世界なのです。つまり、Silentなのです。Silentであるからこそ、Creatorの声がイエスキリストのような預言者たち(ナビー)には聞こえるのではないでしょうか。日本の自然環境では海に行けば「波の音」、山に行けば風に揺れる「木々の音」があり、砂漠のように「まったく音がない」という場所はありません。預言者がイマジネーションから聞くものは、まったく音がないからこそ「Creatorの声=人格をもった神の声」になるのであって、もしそこに風に揺れる木々の音や波の音があったら人格を持つものでなく、自然の音からの自然崇拝になり、「Creatorの声=人格神」という発想になりません。

 映画の冒頭でまったく音のないシーンがあり、そのときにヨルダンのペトラ付近のホテルに泊まったときの荒野の静寂を思い出しました。日本の自然と比較してみると、日本に人格神が根付かない理由が分かる気がします。遠藤周作さんはそれを日本人に合うように、小説という手段で「いつもすぐ近くで連れ添ってくれる同伴者=ナザレのイエス(イエスキリスト)」と改善しました。そしてマーティン・スコセッシ監督はラストシーンを欧米人に合うように改善し世界に発信しました。

 欧米人はそれをどう評価するのでしょうか…(つづく

2016/12/05

【Japan】横浜観光と上海蟹

(酔っ払い蟹のオス)

 東京都内から横浜市に引っ越してから1年以上経つのに、横浜をしっかり観光したことがなかったので、12月3日、4日と港町横浜を観光しました。自宅から電車で30分もかかりませんが、みなとみらいの
横浜ロイヤルパークホテルを予約し、中華街で上海蟹が名物の三和楼を予約したちょっとした旅行です。 

 まずは、港の見える丘公園の紅葉を楽しみながら、フランス領事館の跡地やイギリス領事館を見学しました(写真はイギリス領事館の窓から眺める紅葉)。


 外人墓地に入ると墓地は十字架があり、墓地の建物の中にはモーセのステンドグラスがあるので、不思議に思い受付の人に理由を尋ねましたが、要領を得ません。なぜイエスでなくモーセなんでしょうね...


 山手地区を少し歩くとキリンビール発祥の碑や君が代発祥の碑がありました。



 どうやら日本の国家である君が代は横浜の妙香寺がルーツとのこと。

 「薩摩藩洋楽伝習生への指導がはじまる時、フェントンは日本に国歌があるなら、その作譜から指導をはじめようと提言したが、その時点で日本には国歌がなかった。薩摩藩洋楽伝習生の穎川吉次郎(えがわきちじろう)が、当時薩摩藩の砲兵隊長であった大山巌(おおやまいわお)にそれを伝えたことから、『君が代』が誕生したと伝わっている。大山巌は西郷隆盛の従兄弟で明治の元老(明治時代の重要な政治的案件の決定に参与した政治家)。折しもこのころ、イギリスの王子、エジンバラ公の来日があり、儀礼に演奏する日本の国歌の必要性が高まっていた。

 国歌という概念にはじめて触れた大山巌を代表とする薩摩藩士たちは、日本にも国歌を作ろうと検討をはじめ、 古今和歌集に記載され、おめでたい歌として小唄、長唄から浄瑠璃でも幅広く親しまれている『君が代』を歌詞として選ぶ。
『君が代』は薩摩琵琶歌にもあり、それが大山巌の愛唱歌だったと伝えられている。

 この歌詞に合わせた作曲を依頼されたフェントンは、讃美歌風のメロディを作成。
1870(明治3)年には、この『君が代』がはじめて演奏された。 しかし、この初代『君が代』は美しいメロディだが歌詞と合わず歌いにくかったこと、西洋音楽がまだ一般的ではなかったことから作曲し直されることとなる。新しい曲は宮内省(宮内庁の前身)により雅楽調に作曲し直され、フェントンの後任であるドイツ人のエッケルトが吹奏楽用に編曲を行った。これが現在の『君が代』となる。フェントンが作曲した初代の『君が代』は、こうして姿を消す。」 初代『君が代』は讃美歌風だった!? 発祥の地「妙香寺」で歴史を徹底取材したより



 その後、石川町の猫カフェを訪れました。写真のように猫たちはすこやかに眠っています。そのうち寝ていた1匹が私の膝の上移動してくつろぎました(笑)


 中華街にある関羽の寺院。台湾でも関羽の寺院(台湾とfacebook)に入りましたが、中国では関羽は人気があるのでしょうかね。

 

 上海蟹で有名な三和楼に到着。さっそく蒸の上海蟹のオスメスを注文し、予約していた酔っ払い蟹のオス(トップの写真)をいただきました。はじめての酔っ払い蟹でしたが、最高の酒のつまみです。予算の関係でメスは次回としましたが、オスの味噌は独特の濃厚な味です。



 上海蟹の小籠包と名物の排骨唐揚げをいただき、上海蟹が蒸しあがるのを待ちます。数年前にも三和楼で上海蟹をいただきましたが、蒸しあがった上海蟹が運ばれるとうれしくなります。



 一般的に日本人は蟹の場合、メスの卵を好みますが、上海蟹に関してはオスの味噌(写真右オス、左がメス)が実に美味しいのです。オスとメスは別物と考えてもいいのかも知れません。その後、チャーハンとエビラーメンで〆、紹興酒もたくさんいただき大満足です。



 みなとみらいの駅に直結した横浜ロイヤルパークホテルからの夜景と朝の風景。富士山は少しだけ顔を出していました。



 横浜ロイヤルパークホテルに隣接する三菱重工の造船ドックとクリスマスツリー。今年ももう終わりますが、横浜観光と上海蟹を満喫しました。

2016/10/22

【Japan】小栗上野介忠順とヴェルニー


 今まで横須賀のヴェルニー公園は車でしか訪れたことがなかったので、今日は電車で訪れゆっくりと散策しました。秋のローズフェスタが終わったばかりなので、まだ開花したいろいろなバラを楽しむことができました。写真は「桜木」という桜に似たバラです。バラの向こうに見えるのは横須賀らしい潜水艦です。


 ヴェルニー記念館の解説によると、日本ではじめてメートル法を採用したり、日曜日を休みしたのは横須賀製鉄所だったようです。

 「就業に関しては、さまざまな規則が協議されました。就業時間は西洋時間で10時間とすること、フランス人は原則として日曜日を休業とすること、などが取り決められました。しかし、日曜日の習慣がなかった日本人は、日曜日も就業するため、フランス人の何人かは、これを監督するために日曜出勤を余儀なくされました。」

 幕末の小栗上野介忠順が構想した横須賀製鉄所(フランス人は造船所を意味するarsenalと呼んでいたが、日本語では製鉄所を訳された)はフランス人技術者であるヴェルニーとのペアシステムで構築された訳です。その後、ヴェルニーは灯台建設や富岡製糸工場に関与し、日本の製造業の礎(0 to 1)となりました。


 ヴェルニー公園には小栗上野介忠順とヴェルニーの銅像がペアで並んでいます。二人の功績はヴェルニー記念館で無料で配布されている小冊子にコンパクトにまとめてあります。


 このブログでも小栗上野介のことは何度も触れていますが、先見性のある人というのはこういう人のことなのでしょうね。


 ご存知のように横須賀製鉄所は日露戦争を勝利に導き、日本は太平洋戦争まで突っ走ってしまいます。

 ヴェルニー公園から見える軍艦...