2016/12/05

【Japan】横浜観光と上海蟹

(酔っ払い蟹のオス)

 東京都内から横浜市に引っ越してから1年以上経つのに、横浜をしっかり観光したことがなかったので、12月3日、4日と港町横浜を観光しました。自宅から電車で30分もかかりませんが、みなとみらいの
横浜ロイヤルパークホテルを予約し、中華街で上海蟹が名物の三和楼を予約したちょっとした旅行です。 

 まずは、港の見える丘公園の紅葉を楽しみながら、フランス領事館の跡地やイギリス領事館を見学しました(写真はイギリス領事館の窓から眺める紅葉)。


 外人墓地に入ると墓地は十字架があり、墓地の建物の中にはモーセのステンドグラスがあるので、不思議に思い受付の人に理由を尋ねましたが、要領を得ません。なぜイエスでなくモーセなんでしょうね...


 山手地区を少し歩くとキリンビール発祥の碑や君が代発祥の碑がありました。



 どうやら日本の国家である君が代は横浜の妙香寺がルーツとのこと。

 「薩摩藩洋楽伝習生への指導がはじまる時、フェントンは日本に国歌があるなら、その作譜から指導をはじめようと提言したが、その時点で日本には国歌がなかった。薩摩藩洋楽伝習生の穎川吉次郎(えがわきちじろう)が、当時薩摩藩の砲兵隊長であった大山巌(おおやまいわお)にそれを伝えたことから、『君が代』が誕生したと伝わっている。大山巌は西郷隆盛の従兄弟で明治の元老(明治時代の重要な政治的案件の決定に参与した政治家)。折しもこのころ、イギリスの王子、エジンバラ公の来日があり、儀礼に演奏する日本の国歌の必要性が高まっていた。

 国歌という概念にはじめて触れた大山巌を代表とする薩摩藩士たちは、日本にも国歌を作ろうと検討をはじめ、 古今和歌集に記載され、おめでたい歌として小唄、長唄から浄瑠璃でも幅広く親しまれている『君が代』を歌詞として選ぶ。
『君が代』は薩摩琵琶歌にもあり、それが大山巌の愛唱歌だったと伝えられている。

 この歌詞に合わせた作曲を依頼されたフェントンは、讃美歌風のメロディを作成。
1870(明治3)年には、この『君が代』がはじめて演奏された。 しかし、この初代『君が代』は美しいメロディだが歌詞と合わず歌いにくかったこと、西洋音楽がまだ一般的ではなかったことから作曲し直されることとなる。新しい曲は宮内省(宮内庁の前身)により雅楽調に作曲し直され、フェントンの後任であるドイツ人のエッケルトが吹奏楽用に編曲を行った。これが現在の『君が代』となる。フェントンが作曲した初代の『君が代』は、こうして姿を消す。」 初代『君が代』は讃美歌風だった!? 発祥の地「妙香寺」で歴史を徹底取材したより



 その後、石川町の猫カフェを訪れました。写真のように猫たちはすこやかに眠っています。そのうち寝ていた1匹が私の膝の上移動してくつろぎました(笑)


 中華街にある関羽の寺院。台湾でも関羽の寺院(台湾とfacebook)に入りましたが、中国では関羽は人気があるのでしょうかね。

 

 上海蟹で有名な三和楼に到着。さっそく蒸の上海蟹のオスメスを注文し、予約していた酔っ払い蟹のオス(トップの写真)をいただきました。はじめての酔っ払い蟹でしたが、最高の酒のつまみです。予算の関係でメスは次回としましたが、オスの味噌は独特の濃厚な味です。



 上海蟹の小籠包と名物の排骨唐揚げをいただき、上海蟹が蒸しあがるのを待ちます。数年前にも三和楼で上海蟹をいただきましたが、蒸しあがった上海蟹が運ばれるとうれしくなります。



 一般的に日本人は蟹の場合、メスの卵を好みますが、上海蟹に関してはオスの味噌(写真右オス、左がメス)が実に美味しいのです。オスとメスは別物と考えてもいいのかも知れません。その後、チャーハンとエビラーメンで〆、紹興酒もたくさんいただき大満足です。



 みなとみらいの駅に直結した横浜ロイヤルパークホテルからの夜景と朝の風景。富士山は少しだけ顔を出していました。



 横浜ロイヤルパークホテルに隣接する三菱重工の造船ドックとクリスマスツリー。今年ももう終わりますが、横浜観光と上海蟹を満喫しました。

2016/10/22

【Japan】小栗上野介忠順とヴェルニー


 今まで横須賀のヴェルニー公園は車でしか訪れたことがなかったので、今日は電車で訪れゆっくりと散策しました。秋のローズフェスタが終わったばかりなので、まだ開花したいろいろなバラを楽しむことができました。写真は「桜木」という桜に似たバラです。バラの向こうに見えるのは横須賀らしい潜水艦です。


 ヴェルニー記念館の解説によると、日本ではじめてメートル法を採用したり、日曜日を休みしたのは横須賀製鉄所だったようです。

 「就業に関しては、さまざまな規則が協議されました。就業時間は西洋時間で10時間とすること、フランス人は原則として日曜日を休業とすること、などが取り決められました。しかし、日曜日の習慣がなかった日本人は、日曜日も就業するため、フランス人の何人かは、これを監督するために日曜出勤を余儀なくされました。」

 幕末の小栗上野介忠順が構想した横須賀製鉄所(フランス人は造船所を意味するarsenalと呼んでいたが、日本語では製鉄所を訳された)はフランス人技術者であるヴェルニーとのペアシステムで構築された訳です。その後、ヴェルニーは灯台建設や富岡製糸工場に関与し、日本の製造業の礎(0 to 1)となりました。


 ヴェルニー公園には小栗上野介忠順とヴェルニーの銅像がペアで並んでいます。二人の功績はヴェルニー記念館で無料で配布されている小冊子にコンパクトにまとめてあります。


 このブログでも小栗上野介のことは何度も触れていますが、先見性のある人というのはこういう人のことなのでしょうね。


 ご存知のように横須賀製鉄所は日露戦争を勝利に導き、日本は太平洋戦争まで突っ走ってしまいます。

 ヴェルニー公園から見える軍艦...

2016/09/10

【Japan】小田原城とういろう


 9月9日は、NHKの「軍師 官兵衛」「真田丸」で小田原城の北条氏にまつわる話が多かったので、車で通り過ぎたことしかない小田原城をじっくり見てみようと訪れてみました。


 生まれ故郷の八幡城(刃物会館でミソノモリブデン鋼を購入、そして青山のルーツの郡上八幡へ)は吉田川を見渡し、岐阜城(岐阜城からの天下布武と紫陽花)は長良川を見渡す城ですが、小田原城のように海(相模湾)を見渡す城ははじめてです。遠くは舞鶴半島、山側は箱根山系と丹沢山系に囲まれています。




 城の堀や燃えにくくするための銅門、あるいは土嚢による防御など、城を囲むセキュリティーも万全のようですが、全長9kmに及ぶ総構えは中世のヨーロッパの街を囲むセキュリティーの考え方と同じで、武田信玄も上杉謙信も攻めることができなかったものです。


 ういろう、というと名古屋の名物かと思っていましたが、ういろうは薬のういろうとお菓子のういろうがあるそうです。小田原の外郎家は京都の元祖外郎家の分家で、薬を製造していたので、看板は写真のように薬屋ですが、店内ではお菓子のういろうが販売されています。

 「外郎家の薬のためういろうと呼ばれました。室町時代から作られ、武士、公家、宮中、幕府で用いられました。これは日本で最初の製薬とされています。江戸時代になり、東海道を通る人々が必ずと言っていいほど「ういろう」を求めました。印籠に納めて道中の常備薬にしたり、みやげにしたりしたのです。そのため全国に広まりました。」 外郎についてのうんちく

 小田原のういろうは名古屋のものとは違い羊羹とすあまを足したような感じです。


 帰路では鶴巻温泉に立ち寄り、横浜でトラジの焼肉を食べ帰ったのでちょっとした日帰り旅行になりましたが、やはり現地赴くと「ういろう」のように新しい発見もあり楽しいものですね。


 ちなみに、小田原生まれの二宮尊徳にちなんでか小田原城の敷地内に二宮神社がありますが、二宮金次郎の像の近くで仕事のメールをスマホで確認していたら、スマホを見ながら歩くおじさんに「ポケモンGOをやっているのですか?」と声を掛けれてしまいました。
 現代の二宮金次郎はスマホを手にしているのかも知れませんね(笑)

2016/07/16

【Japan】トルコ・スーフィーと徹夜踊り


 2016年7月15日は、1年ぶりに生まれ故郷の岐阜県郡上市白鳥町に墓掃除と墓参りに訪れました。

 いつものように墓参りが終わり温泉に立ち寄ったら、写真のようなトルコ・スーフィーという音楽祭のポスターを発見しました。スーフィーについては自分の仕事のブログ(第3のイスラーム、スーフィズム)でまとめたので、ある程度は知っていますが、なぜ、こんな田舎でトルコ・スーフィー?と疑問に思ってしまいました。


 「彼らは律法中心主義の法学、神学者に対し、音楽や舞踊は自我の消滅を導き、陶酔的境地に入って神の直接的体験を得る手段となりうるとし、これらをサマー(集会で特定の章句や詩を唱え忘我の境地へと入る勤行)の形で発展させ、その最たるものがルーミーを祖とするメヴレヴィー教団の典礼となった。・・・ さて今回、郡上八幡音楽祭にクツィ・エルグネルが二人のトルコ古典音楽の精鋭を率いて来てくれる。彼は88年の『マハーバーラタ』で日本に来たが、本格的スーフィー音楽の公演はこれが初めてで、他の二人は初来日となる。今回は一日目がスーフィー、メヴラーナーの典礼音楽、二日目がスーフィー達がその発展に寄与したオスマン・トルコの古典音楽が演奏され、私も打楽器で参加する。二日間のコンサートは、いずれもクツィ・エルグネルの体験と博識ゆえに実現するコンサートであり、是非ともこのまたとない機会をお見逃しなく。

 来たれ、来たれ 汝いかなる者であろうと 異教徒であれ、偶像崇拝者であれ 来たれ、われらが宿は 望みなきところにあらず たとえ汝、誓に背こうとも 来たれ、幾たびとなく。<ルーミー>」

 郡上の人にスーフィー音楽が響くかどうかは分かりませんが、郡上踊りの徹夜踊りのカルチャーはスーフィーダンスに通じるのではないかと勝手に空想しています(笑)

 そして、いつものように「いろり料理 サクラ」に長良川の天然鰻を頼んでおいたのですが、残念ながら今年は捕獲できず養殖鰻となってしまいました。

 しかし、いつものように天然鮎の塩焼きと刺身、そして飛騨料理の朴葉味噌などの田舎料理を楽しみました。




 店の店主が釣ったアマゴを水槽に入れておいたら尺アマゴに成長したようです。ちなみに、アマゴの旬は4~6月頃ですが、長良川水系は2月に漁が解禁になるので雪の残る春先がすれていないので釣りやすいものです。


 それにしても、店先の水槽に引いた水でアマゴがよく数年も生きますね。
尺アマゴが3匹ほど泳いでいました。


2016/02/06

【Japan】日本初のスキー場 富士山二合目のイエティー


 2月5日は富士山二合目にスキーに行きました。
 1週間ほど前に16年ぶりに痛風になり、富士山二合目のスキーまでに完治するかと心配だったのですが、痛風の右足の親指付近はスキー靴で固定され、問題なく滑走ができました(笑)

 東京でのスキーは越後湯沢に行くことが多かったのですが、ワイフが初級者なので今回は富士山二合目のイエティにしました。


 上級、中級者コースもあり、半日ぐらいは楽しめます。
 生まれ故郷にある油坂スキー場(2004年に閉鎖)によく似たゲレンデでなので、初級者がボーゲンを卒業するのには最適です。


 このスキー場が日本初のスキーの地だったことは知りませんでしたが、富士山をバックに滑るというのは気持ち良いものですね。しかも、こんなに近くで富士山を見たのははじめてです。


 写真は雲が少し出てきた午後の富士ですが、雄大ですね。
 朝7時半に横浜を出て10時にスキー場に着き、4時まで滑り4時半のバスで7時半に横浜着、というコースなので翌日に疲れも残らず、それなりにスキーも楽しめます。

2015/11/07

【Japan】弥山(みせん)・厳島神社の紅葉と八木・宇田アンテナ


 グランドプリンスホテル広島の無料宿泊券をいただいたので、11月4日と5日は宮島を訪れました。

 数年前のNHK大河ドラマで主人公になった平清盛が非常に面白かったので、機会があったら宮島を訪ねてみたい、と思っていました。平家は滅びてしまいましたが、地中海を自由に貿易していた古代フェニキア人のような彼のグローバルな感性は、現代の日本のニードに通じるものがあります。
 

 厳島神社の入口ではさっそく平清盛がお出迎えしてくれました。


 東京から広島空港、そして宮島に着いたのは午前11時過ぎで、厳島神社の鳥居は9時の引き潮の状態から徐々に満ちている状態でした。これから弥山の頂上に到着し、下山は午後3時か4時頃を予定しています。ちょうどそのときは満潮ですが、潮の満ち引きを神社のデザインに取り入れる独創性には唸ってしまいます。


 トップの写真の紅葉谷公園を通過すると、弥山の登山口です。標高535mの低山ですが、写真のように急な階段の連続なので、結構ハードです。


 1時間ほど階段を登り、瀬戸内海を見渡せる場所で、名物のあなごめし弁当で昼食。


 頂上には「二十四丁」とあり、神奈川県の大山のように弥山も修行の山なのでしょう。


 山頂から360°海という光景は珍しいものです。この写真を拡大すると真ん中付近に小さく厳島神社の鳥居が見えます。


 下山すると、干潟に徐々に海水が満ちてきて、流れ込んでくる小魚を鳥たちが狙っています。厳島神社の干潮と満潮の両方を楽しむには弥山のトレッキング時間はベストでした。


 表参道で名物の焼き牡蠣(右側が小さい...)と牡蠣フライを食べました。


 宮島からの夕日を眺めつつホテルに向かいます。海岸に建つグランドプリンスホテル広島はフェリーが直接立ち寄るので宮島観光には便利なホテルです。


 

 翌日は広島観光で、名物の小イワシ刺と生タコをいただきました。市内を歩く途中に百貨店などの魚屋さんを除いてみましたが、小イワシは岡山、生タコは三原から水揚げされているようです。ウマヅラハギなども瀬戸内海でよく獲れるようですね。


 お好み村近くの広島焼きで〆ました。
以前、出張で広島をしたとき、地元の同業者とたっぷりお酒を飲んだ後の〆でラーメンなどの汁ものでなく、広島ではお好み焼きを食べる習慣があることを聞いて驚いたことがありますが、広島焼きは見た目より結構満腹になるものです。


 原爆投下の目印となった相生橋から写した原爆ドームですが、あいにくの小雨で暗く映ってしまいました。

 

 広島平和記念資料館で見かけた実物大の原爆です。頭部には原爆が爆発する高度を測定するための八木・宇田アンテナがあります。

「八木アンテナ開発当時の1920年代の日本の学界や軍部では、敵を前にして電波を出すなど暗闇にちょうちんを灯して位置を知らせるも同然だと考えられ、重要な発明とみなされていなかった。

 このことをあらわす逸話として、1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領し、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類を押収した際、日本軍の技術将校が技術書の中に頻出する “YAGI” という単語の意味を解することができなかったというものがある。技術文書には『送信アンテナは YAGI 空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる』と言った具合に “YAGI” という単語が用いられていたが、その意味はおろか読み方が『ヤギ』なのか『ヤジ』なのかさえわからなかった。ついには捕虜のイギリス兵に質問したところ

『あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ』

と教えられて驚嘆したと言われている。」

 Wikiにはこのような逸話がありますが、日本人の評価能力の欠如を如実に表す逸話ですね。しかも、原爆に搭載されていたなんて...


 秋の広島を楽しんだ2日間でしたが、最後は木漏れ日溢れる紅葉谷の写真でしめくくりたいと思います。

2015/10/03

【Indonesia】バリ島のロックバーとインドネシアの9月30日事件

 ANAのマイルとマリオットホテルのポイントの有効期限が切れそうになったので、その両方を満たすバリ島に9月26日から10月1日まで行って来ました。宿泊したのはAYANAというマリオット系列のホテルです。


 この写真はAYANAの敷地内にある海辺の絶壁に沿った小規模なプールから見た夕日です。


 AYANAもそうですが、マリオットやハイアットなどの欧米のホテルは広大な敷地内にすべての施設を揃え、その中で消費のすべてを完結させようとするタイプのものが多くあります。AYANAまで行く道にはこのような風景があり、その敷地内と外とのギャップに戸惑いを覚えます。


 AYANAは敷地内に海辺の岸壁にバーが造られていてバリ島の新名所になっています。海辺の岩を切り造られていることから、このバーはロックバーと名付けられ、近隣のホテルからもロックバーでカクテルを飲みながら夕日を眺めたい人達で夕刻は満員になります。


 私たちも行きましたが、アジア人の人達がうるさく、カクテルも雑なので、ゆっくりカクテルを楽しむ、という雰囲気にはなりません。


 バーカウンターから夕日を眺めてすぐに退散しました(笑)
 話のネタとしてロックバーに行った、ということならいいのですが、ゆっくりと夕日を眺めたい方は、ロックバーの隣にあるAYANAの宿泊客しか入れない岸壁のプールがお薦めです。ここでカクテルを注文し、10ペアほどしかないサマーベットで静かに夕日を眺めるのが穴場です。


 AYANAの宿泊者のみの贅沢な時間と空間ですが、隣のロックバーの喧騒から離れ、バリ島のひと時を楽しめます。


 バリの食事はナシゴレン、ミーゴレンなど有名ですが、ナシチャンプルが美味しいですね。また魚を焼いただけのイカンバカールも有名です。ジンバランという地域の海辺に並ぶレストランでイカン(魚)バカール(焼く)をいただきましたが、焼き方が大胆です。


 魚を選び注文できるので、イカ、エビ、マナガツオを注文しましたが、高価なマナガツオがこんな具合に焼かれてしまいます。
 スペインの海辺でも魚を単に焼く料理がありますが、ふっくらと旨味を皮で閉じ込めるように焼かれていて、イカンバカールのように焦げ焦げではありません(笑)


 ここでも夕日を見ながらの食事で、夕日は美しいのですが、騒々しい...観光地なので仕方ないですね。丸々1匹のマナカツオを自分で串で刺しふっくら焼いて食べたかった(笑)


 久しぶりに軽く2ダイブしましたが、ログブックで確認すると久米島以来(久米島の沖縄県海洋水研究所と新産業)2年ぶりの41回目と42回目になります。はじめて泳いでいるウミガメを発見しました。

 5日間の滞在中にTVのニュースでインドネシアの新幹線が中国に決定した、というニュースが流れていました。帰国後調べると日本政府に伝えられたのは9月29日だったようです。帰りの飛行機にあったジャカルタ新聞にあったインドネシア研究家の倉沢愛子さんの記事で、今年はインドネシアの「9月30日事件」のちょうど50年目であることを知りました。


9・30 世界を震撼させた日――インドネシア政変の真相と波紋
 一九六五年一〇月一日未明に、ジャカルタで軍事政変が勃発、半年後の一枚のスカルノ大統領が発したとされる命令書により、権限はスハルトへと移った。中国では文化大革命が起き、東南アジアにアセアンが成立し西側反共主義陣営の結束を固め、日本は大規模な経済進出の足掛かりをつかんだ。政変を主謀したとされたインドネシア共産党は非合法化され、党員は逮捕され殺され政治犯にされた(50万とも100万とも言われる)。国内全土に大虐殺の嵐が吹き荒れ、インドネシア経済を担っていた華僑への迫害がエスカレートしていく。膨大な一次史料と先行研究を踏まえ、いまだ謎に包まれた事件の真相を追究し、インタビューと現地取材を通して、事件の波紋の全体像を活写する。」

 「9月30日事件」でインドネシア共産党が一掃され日本が一気にインドネシアに進出、その50年目が今年の9月30日。そして、中国の新幹線受注の発表が50年後の9月29日。インドネシアに合法化された共産党はもうないと思いますが、今回の商談は中国共産党の勝利になったのですね。

 今回のバリ島は旅のスケジュールの関係で、偶然インドネシアの歴史を知ることができ、非常に参考になりました。