2020/09/21

【Japan】根津神社と森鴎外記念館への旅

森鴎外

  以前、横浜市の日吉に住んでいる頃、横浜観光(横浜観光と上海蟹)で、「君が代」の発祥の地が横浜の妙香寺だということを知りました。今回は文京区の森鴎外記念館で、森鴎外の意外な側面を知ることができましたので、まとめておきます。

 まずは、バスで根津神社を訪問しました。





 根津神社は、1900年前にヤマトタケルが創祀したと伝わる歴史ある神社で、写真のようにたくさんのツツジがあることで有名です。

 おみくじを引いてから、団子坂を目指して歩きます。
 団子坂を登り切ると、文京区立の森鴎外記念館があります。この地は、森鴎外が30歳のとき(1892年)に住みはじめ、亡くなる1922年まで家族と暮らした家(観潮楼)の跡地です。ちなみに、閉館した上野の鴎外荘は20代の頃に住んでいたところです。


 写真は、上野の鴎外荘で書かれたという「舞姫」のモデルであるエリスの像で、森鴎外記念館の外(観潮楼の入り口側)にあります。ご存知のように森鴎外は陸軍医でドイツに留学し、帰国後「舞姫」を執筆(1890年)しましたが、その頃、1度目の結婚(1889)をしています。

 ドイツではエリスという女性と付き合っていたようですが、彼女は帰国した森鴎外を追って来日したそうです。

    1888年:エリスが来日
    1889年:1度目の結婚
    1890年:「舞姫」発表

 1888年、ドイツ留学から鴎外が帰国して間もなく、はるばるドイツから、気丈にも、たった独りで鴎外を追って来日したエリスという若い女性がいた。森家存続の危機とばかりに、親族一同、彼女を宥めすかして帰国させたと記録にある。明治の始め、国家の未来を背負ってドイツに官費留学した若き鴎外は、探究心と自負心と愛国心を胸に研究に励み、当時の日本人には珍しく欧州の文化にも溶け込んで日々の生活を目一杯楽しんだ。そして永遠の恋人・エリスと出会った。
 エリスとの結婚は当時の国状や親族の心情からも到底不可能で、鴎外は親の勧めで、海軍中将赤松則良の長女登志子さんと結婚したが二年と持たずに離婚した。その時の鴎外の心情を伝える資料が、今回、発見されたというのだ。 森鴎外の離婚 鴎外、気性合わず別居 元妻親族の史料見つかる

 「舞姫」は、確か高校時代の国語の教科書にもあり、「石炭をば早や積み果てつ。」は未だに記憶に残っている書き出しですが、そのストーリーは、はっきり言って「ダメ男」というイメージしかありませんでした。
 

「舞姫」あらすじ(3分動画)

 エリスを発狂させたのは、ファウストに登場するマルガレーテ(グレートヒェン)からの脚色でしょうが、男を追いかけドイツから来日したエリスはその後どうなったのでしょうかね。

 森鴎外記念館の映像コーナーで、森鴎外を研究している文京区出身の女性は、森鴎外が如何にフェミニストであったかを、例をあげて解説していました。今までの私の森鴎外のイメージは、「舞姫」の主人公である豊太郎のイメージだったのですが、今回の森鴎外記念館で、鴎外が意外にもフェミニストだということを発見したのです。

 鴎外が女性作家を高く評価していたのをご存じですか?
 明治の女流作家といえば一番に挙がるのが樋口一葉です。『たけくらべ』は鴎外が主催する文芸誌『めさまし草』で幸田露伴、斎藤緑雨と3人の合評で絶賛しています。また与謝野晶子にはフランスへの渡航費用の工面を助けたり、『源氏物語』の訳の校閲を援助するなど表現者としての女性への活動に積極的に関わっていました。
 また女性の権利を主張する運動にも鴎外は理解と応援をしています。『青鞜』を創刊した平塚らいてうを高く評価し、海外の女性運動を紹介するなど「明治の男」のイメージとはかけ離れた時代の先端を行く溌剌としたカッコ良さを感じます。 妻も作家に! 鴎外は明治のフェミニストでした




 次に谷中銀座商店街で鰻を食べ、日暮里に向かって歩きましたが、想像以上に人通りが多いのには驚きました(また数週間後に新型コロナ陽性者が増えそう)。


 途中、何匹か商店街の飼い猫を見ましたが、日暮里駅のロゴが猫デザインなので、谷中銀座商店街近辺は猫が多いのでしょうか。


 前回の横浜観光(横浜観光と上海蟹)のときは、猫を飼っていなかったので、中華街で上海蟹を食べて横浜で1泊しましたが、6月28日から飼い出した2匹の子猫笑にゃんこ王国とテレワーク)が700gから、アロンは2.7Kgとライラは3.1Kg、と順調に成長しており、もう少し彼らが大人になったら泊まりの旅をしたいと思います。

2020/06/28

【Japan】笑にゃんこ王国とテレワーク

 6月19日から東京都の緊急事態宣言解除からの県外移動も可能になったので、21日、22日と近場の秩父に1泊のマイクロツアーに行ってきました。


 今回の旅は、秩父にある笑にゃんこ王国(ニコニャンコ)の主催する子猫譲渡会に参加することが目的です。東京都内にも保護猫を保護する団体は各区にありますが、都内には子猫は少なく、子猫の譲渡会では笑にゃんこが有名です。
 秩父は野良猫が多く、農家の納屋などで親猫が子猫を育てたりしているようで、春には保護猫が多く笑にゃんこに持ち込まれます。保護される大人の猫も100匹ほど飼われていて、年間で半数は引き取られるようなので、こういう団体の存在は貴重です。


 今回は秩父動物病院で子猫が30匹ほどの譲渡会でした。生後すぐの子猫もいましたが、人懐っこい子猫ばかりで随分迷ってしまいます。2時間ほどかけ、生後2ヶ月の2匹の子猫を選びました。私たちは名古屋に住んでいたときからMax10匹ほどの猫を飼っていました。3年ほど前に最後の1匹が21歳で亡くなり、しばらく猫を飼うことはない、と思っていましたが、今回の新型コロナで通勤の満員電車を避けるため東京都内に引っ越すことを決めた段階で、また猫と一緒に生活して、テレワークをさらに愉快にしよう、と考えた訳です。

 笑にゃんこの譲渡会で選んだ猫は、すべて団体の代表が届けることになっています。選んだ猫をちゃんと育てない輩もいるのでしょうか...すべての里親の環境を確認するシステムなのです。やれそうでやれない根気のいるシステムですが、譲渡される猫にとっては必要なことですね。

 そして午後は、秩父名物の蕎麦を食べ、秩父で有名な荒川の長瀞に向かいました。


 曇りでしたが、長瀞の船下りを満喫しました。荒川の上流の長瀞地区は岩盤がむき出しになった珍しい地形で、船下りの景色が独特です。


 船頭さんが激流を通り抜けて行きます。


 この濁流は、奥美濃大橋から岐阜県の長良川の濁流の撮ったもので、長瀞の川下りは、子供の頃、雨で増水した長良川をトラックのタイヤのチューブに尻を突っ込んで上流から数キロ下る、という危険な川遊びを思い出させました。
 川沿いにあるお好み焼き屋のおばさんが、タイヤを持って上流に歩いていく小学生数人に「危ないから、止めろ〜」と叫ぶ声を無視し、上流から濁流を下るのです。ライフジャケットも着けず、転倒したら川の石で頭を打つか、溺れ死ぬかも知れないのですが、田舎のガキはそのようなことはリスクとは感じない訳です。
 それからすると、長瀞の川下りは安全です。


 新型コロナの影響で営業している温泉が秩父では少なく、今晩は温泉付きの宮本の湯に宿泊しました。翌朝は宿が企画している野菜収穫体験サービスでじゃがいもと玉ねぎを袋いっぱい詰め込みました(笑)


 秩父名物のひとつに、イチローズモルトのベンチャーウイスキー秩父蒸溜所があります。工場見学などはできないようですが、蒸溜所まで訪ねてみました。オフィスに電話して販売先を確認すると、蒸溜所では販売許可がなく、秩父道の駅、あるいは矢尾百貨店などで販売しているとのことで、ブレンディッドウイスキーを1本手に入れました。


 笑にゃんこの代表さんから27日に届けられた2匹は我が家にすぐに慣れ「遊んで、寝て、食べて」で1日を過ごし、翌朝はふたり疲れてベットで寝ています。

 写真上はグレーのハチワレのオスで、名前はヘブライ語の Aaron アロン אַהֲרֹן、Zoomミーティングでは口ベタな私をアシスタンスをする日も来るかも知れません(ちなみに、アロンはモーセの兄の名前)。甘えん坊のアロンはスリスリしながら私のお腹の上ですぐ寝てしまいます。

 写真下はアメショーMIXのメスで、名前はアラビア語のLila Lyla ライラ ليلى  今までクロという名前の猫を2代飼ってきたのですが、今回は3代目クロでなく、グローバルに通用するようにアラビア語で「夜」を意味するライラになりました。元気いっぱいのおてんばです。

*2020年7月3日に動物病院でライラが「♂」ということが判明(笑)秩父の保護団体では「♀」と言われていましたが、ライラと呼ぶとこちらに来ますので、名前は変えず、元気いっぱいのわんぱくとしてたくましく育ってください。

2020/06/20

【Japan】神田川源流から関口芭蕉庵の古池

 6月20日(土)は、朝早く起きて神田川源流から関口芭蕉庵までの細道を歩くマイクロツアーをしました。


 吉祥寺の井の頭公園に朝7:00に到着し、徳川家康が好んで茶をたてた水である「お茶ノ水」の湧水付近を散策しました。井の頭池はいたるところにある湧水で満たされた池のようですが、江戸市民の命の水源でした。そして、現在は武蔵野の鳥たちの住処(以下は卵を5つ抱えた親鳥)でもあります。


 井の頭池から神田川の源流ははじまります。私の生まれ故郷が岐阜県の長良川の上流にあり、太平洋に流れ込む長良川と日本海に流れ込む庄内川の源流があるためか、川の源流は妙に訪ねてみたくなるのです(笑)



 神田川沿いはかなり整備され、地域住民のランニングやウォーキングのコースになっています。



 川のせせらぎと鳥のさえずりを聞きながらのウォーキングは実に心地良いものです。


 この写真をよく見ると、親ガモの周りに生まれたばかりの子ガモが泳いでいます。数えると7匹いましたが、「数日前は9匹いた」という近所の人の雑談が聞こえてきました。川辺にカラスもいたので、襲われたのかも知れません。これ以上減らないことを祈りつつ、先に進みます。


 これもよく見ると、鯉と2匹の亀が見えますが、手前はスッポンです。誰かが放流したのかも知れませんね。

 江戸時代には、神田川が流れ込む隅田川で獲れた鰻を「江戸前」と呼んでいたようなので、隅田川の支流の神田川でも鰻が獲れたのではないでしょうか。
 

 神田川は源流の武蔵野市から杉並区へ移ると、桜並木がきれいに植え込まれていますので、桜の季節はきっと素晴らしいのでしょうね。


 途中、増水したときに水を逃がす取水抗があります。工事の影響でここから川の水が濁っていますが、杉並区を抜けると中野区に入ります。


 善福寺川(左)と神田川(右)が合流します。
 三鷹市と杉並区は神田川に沿って遊歩道を整備し、地域住民のランニングやウォーキングの場にしているのですが、中野区に入ると神田川に沿って住宅が続き、川沿いを歩くことができなくなります。区が何の規制もしなかった結果だと推測できますが、なんとも勿体ない話です。神田川は区民が自然とふれあいながら健康増進できる「貴重な場」とは考えていないのかも知れません。


 都庁が見えてきましたので、新宿区に入ります。大久保を過ぎたあたりで、中華料理の昼ごはんを食べて再び歩きはじめました。


 高田馬場にも取水場があります。JRの高田馬場駅の近くで神田川沿いの道が途切れ、高田馬場で少し迷ってしまいました。


 これは遡上する魚のために用意されている魚道ですが、神田川には毎年鮎が遡上し、高田馬場付近で捕獲されているとは驚きです。
 どうやら東京湾の鮎の産卵場所は、お台場で人工的に作られた海辺という説があり、お台場が整備されたからそこで産卵した鮎の稚魚が大量に多摩川や隅田川に遡上しているのでしょう。友釣りや投網で捕獲することもないため、その数は年々増えるばかりでしょうね。


 新宿区から文京区に入ると途端に川の様子が変わります。写真のように岩を削ったような川底になり、まるで渓流の様相になります。川沿いの道も整備され、肥後細川庭園から芭蕉庵、そして椿山荘と江戸や幕末の情緒を残した歴史遺跡が川沿いを飾ります。


 今日の目的地である関口芭蕉庵に到着しました。朝7時半ごろ神田川の源流を出発し、三鷹市、中野区、新宿区、文京区を歩き、14時半に到着です。ランチや高田馬場での道迷いも含め7時間半、38,165歩のウォーキングでした。


 芭蕉庵に入ると、

「古池や 蛙飛び込む 水のおと」

という有名な句が刻んだ石碑があります。

 松尾芭蕉は土木技術者として、神田川上水の改修工事のため、関口に住んでいました。この関口の芭蕉庵はその時の住居を移築したものです。

 「古池や 蛙飛び込む 水のおと」という句は、実際に蛙が古池に飛び込んだのを芭蕉が見て読んだ句ではありません。芭蕉は「蛙が飛び込む水の音」を先に聞いて、その後に心のイマジネーションで「古池や」を付けたと言われています。つまり、古池の句は現実の音をきっかけにして心の世界が開けた句で、その句を読んだ人の心にもそれぞれの情景で、古池と蛙と音がイマジネーションされる訳です。

 古池以前の俳句は言葉遊びだったらしく、芭蕉が古池で得た境地はまさに新しい俳句の流れだった。芭蕉は神田川が流れ着く隅田川のほとりの芭蕉庵から、この発見をさらに試そうと、西行の歩いた「みちのく」への旅に出たのです。

 松尾芭蕉の理念である「不易流行」は経営や商品開発を含めいろいろなシーンに役に立つ考え方ですが、ブリタニカ辞書には以下のように解説されています。

【不易流行】
 一般には句の姿の問題として解され,趣向,表現に新奇な点がなく新古を超越した落ち着きのあるものが不易,そのときどきの風尚に従って斬新さを発揮したものが流行と説かれる。しかしまた,俳諧は新しみをもって生命とするから,常にその新しみを求めて変化を重ねていく流行性こそ俳諧の不易の本質であり,不易は俳諧の実現すべき価値の永遠性,流行はその実践における不断の変貌を意味するとも説かれる。

 今まで、言葉遊びだった俳句を心の中のイマジネーションの世界に変化させて行った流行性こそ、不易の本質であると捉えていたのですね。
 恐るべし、土木技術者!


 ちなみに、文京区立の関口芭蕉庵の「古池」の句碑の後ろには写真のような古池がありました。「古池がない」ことこそ芭蕉の俳句(不易流行)の本質なんですよ。文京区役所のご担当者さん(笑)

 関口芭蕉庵から隅田川までは7kmぐらいなので、次回は冬にでも深川の芭蕉庵を訪ねるウォーキングをするつもりです。

2020/02/16

【Japan】下関の三枡と奈良のペルシャ人たち

 2月13日、14日に山口県と大阪に出張の機会があったので、3年前に訪れた下関の居酒屋 三枡(下関のふくと高杉晋作の功山寺挙兵)に再び訪れました。


 熟成された美味しい天然の「ふく」が食べたいのはもちろんですが、三枡の雰囲気が実に風情があっていいのです。



 例えば、この入り口に至る通路や黒板に書かれたメニュー。
 国内外を問わず、旅先で地元の食材が地元の食べ方で安価で、しかも美味しく食べれることは嬉しいことです。三枡は下関の駅から近いこともあって、大きめのカバンを持つサラリーマンですぐに満席になります。きっと彼らの下関出張時の行きつけの店なのでしょうね。

 ふくの白子

 クジラの皮とさえずり

 ふくチリ(ふくの唐揚げは写真なし)

 鳥の唐揚げ(絶品です)

ヒレ酒

 もう一度訪れることができるかどうか分かりませんが、下関に立ち寄ったら三枡は外せない大衆居酒屋です。

 翌日は、下関から瀬戸内海沿を新幹線で大阪に移動し(仕事を行い)、翌日の土曜日(15日)に奈良を自転車で散策しました。なぜなら最近(2016年)、奈良にペルシャ人が住んでいた学術的証拠が見つかったので、その痕跡を訪ねてみたかったのです。

 数学教えていた? 平城京にペルシャ人の役人 木簡に名前
 奈良文化財研究所の渡辺晃宏(Akihiro Watanabe)史料研究室長によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャが得意としていた数学を教えていた可能性があるという。 渡辺史料研究室長は、これまでの研究でペルシャとの交流は7世紀にも始まっていたとされているが、当時、遠いペルシャの国の人が日本で働いていたことが確認されたのは初めてで、奈良が国際色豊かで外国人も平等に扱われていたことを示すものと語った。


 書かれていた名前は波斯清通(清道)。「ぺるしあ」を漢字変換すると「波斯」となりますが、ペルシャ人の清道さんという人名が765年の木簡に記されていたのです。

 平城宮跡資料館にはペルシャ文化がシルクロードを通って伝えられた証拠が数多く展示されています。

木簡

 ペルシャ絨毯と天皇のベット

 ペルシャのグラス

羊の硯

 これだけでもペルシャとの文化交流の痕跡を感じますが、実際にペルシャ人が住んでいたとは驚きです。

 奈良時代は古事記が編成された710年頃はじまり、平城京が長岡京へ移動する784年まで続きます。今回発見された木簡は765年のものですから、奈良時代のものです。

 当時のイスラームの歴史を追ってみると、ムハンマドがなくなったのが632年。その後、4人のカリフが後継者となり(正統カリフ時代)、637年にカーディシーヤの戦いで現在のイラク・イランにまたがるササン朝ペルシャを破りました。


 そして、ペルシャ人に浸透していたゾロアスター教がイスラームに改宗され、現在のシリアのダマスカスを首都としたウマイヤ朝(661−750年)から現在のイラクのバクダードを首都としたアッバース朝(750年−1517年)に移行しました。

 ペルシア人たちも、アラビア語を異民族の言葉でなく、イスラムの言語として受容していった。そしてサーサーン朝が培った洗練された文化ともに、哲学、神秘主義、歴史、医学、数学、法学などの学芸、科学の分野において、アラビア語で業績を残すようになった。それは、アラブの歴史学者のイブン・ハルドゥーン(1331−1406)がその著作『歴史序説』の中で、「たいていのアラブの科学者たちが非アラブ人であった」と書いていることからも明らかなように、アラビア語の文法を体系的にまとめた文学者のスィーバワイ(?−796)などは、ペルシア人でありながらもアラビア語に精通していた。スィーバワイはアッバース朝下のバスラで伝承学や法学を修めた人物で、シーラーズ(イラン中西部)出身のペルシア人であった。
 こうしてアラブに征服されたペルシア人は、おおやけにペルシア語を用いることはせず、ペルシア文化をもとにアラビア語で実績を重ね、さらにイスラムにも帰依するようになった。だが、それでも自らの言語や文化・伝統を忘れることはなかった。 オリエント世界はなぜ崩壊したか P83より

 となると、波斯清道さんはイスラームに征服されたアッバース朝時代のペルシャ人ということになります。数字の「0」やアラビア数字は古代インドからイスラームを経てヨーロッパにもたらされていることから、当時の波斯清道さんが日本人に数学を教えていたことも頷けます。
 その後、ペルシャ人は数学を発展させ、9世紀前半にバクダートで活躍したイスラムの科学者フワーリズミーは代数学の礎を築き、平方根や繁分数を生み出しました。

 ここで気がついた人も多いと思いますが、同じイスラームでも日本にきていた人たちはペルシャ人だということです。アッバース朝に支配された現在のイランやイラク地域のシーア派の人たちの祖先がシルクロードを通り、下関の関門海峡を通過し、瀬戸内海から大阪に入り、そして平城京にたどりついていたのです。


 以前にまとめたブログで、東大寺の修二会(お水取り)の企画立案者である実忠さん(726年)がペルシャ人ではないか、という説を紹介しましたが、実忠さんと波斯清道さん(765年)が年代的にも40年ほどの差しかないのは、平城京にはペルシャ人が何人も日本に住んでいたと類推でき、面白いものです。

 カナートと東大寺二月堂の修二会
 ここに「ペルシア文化渡来考」という1冊の本があります。著者は伊藤義教さんというイラン学者です。 この本ではイランにおけるゾロアスター教の要素が、東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)に伝わっている、と考察しています。 

 お水取り:魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという、「お水取り」の由来を伝えている。

  「若狭の国の遠敷明神というのは、・・・国鉄小浜線小浜駅の南七〇〇メートルの同市遠敷にあって若狭姫神社と呼ばれる。・・・遠敷明神と結び付いた背景には『北方から正月の水が二本、地中をくぐって流下し、奈良の二月堂で地上に出た』 ・・・ そういう考えがあったことになる。そして、これはまさしくカナートと同じ考え方である。・・・若狭から奈良へのカナートとなれば直線距離にして九〇キロメートルはあるから、架空的なものではあるが、世界最長のものとなろう。・・・お水取りの一〇日前、三月二日には遠敷川上流、鵜の瀬で『送水の神事』が行われる。この地は若狭彦神社の南南東約二キロメートルにあり、遠敷川は『東大寺要録』に言う音無河である。」  ペルシア文化渡来考より 

 達陀の行法(だったんのぎょうほう):「達陀」とは「(火を)通過する・(火)渡り」の行ということで、名実ともにイラン起源のもの ・・・ イランの事情を踏まえて実忠によって創始されたものとみることができる」 ペルシア文化渡来考より

  「達陀の行法(だったんのぎょうほう)は、堂司以下8人の練行衆が兜のような「達陀帽」をかぶり異様な風体で道場を清めた後、燃えさかる大きな松明を持った「火天」が、洒水器を持った『水天』とともに須弥壇の周りを回り、跳ねながら松明を何度も礼堂に突き出す所作をする。咒師が『ハッタ』と声をかけると、松明は床にたたきつけられ火の粉が飛び散る。修二会の中でもっとも勇壮でまた謎に満ちた行事である。」 Wiki修二会より 

 イラン学者である伊藤義教さんは、修二会を創始した実忠は「イラン系異邦人である」という仮説を持っていますが、確かにカナートと「お水取り」、ゾロアスター教の終末の火(火審と浄罪)の役割と「達陀の行法」は極めて類似しています。

 カナート ⇒ お水取り
  終末の火 ⇒ 達陀の行法

 実忠がイラン系であったか、あるいはソグド人のようにアジアに溶け込んでしまったアジア人(コーカソイド⇒モンゴロイド)なのかは分かりませんが、なぜ水が豊富な日本の東大寺にゾロアスター教の2つの要素(お水取り、達陀の行法)を伝えたのでしょうか。 そして、それが現代まで伝承されている必然性は何なのでしょうか...


 古事記が書かれた平城京の時代にペルシャ人が日本に住んでいたということは、奈良の発掘調査(現在40%が発掘済)で今後も数多くの証拠が出てくるでしょう。

 下関三枡の「ふく」が出張者を満足させるように、平城京を訪れたペルシャ人は日本の料理に満足したのでしょうか、、、住み着いたのですからきっと美味しい食べ物があったのでしょうね。