2020/01/04

【Japan】何もできなかった50代と長良川鉄道

 2020年1月1日、生まれ故郷の岐阜県郡上市白鳥町白鳥に長良川鉄道という鈍行ジーゼル列車で訪れました。


 高山線の美濃太田駅が長良川鉄道の始発駅です。

 国鉄時代の長良川鉄道は越美南線と呼ばれた美濃太田駅から北濃までの路線です。北陸側からは越美北線と呼ばれる福井市の越前花堂駅から九頭竜湖までの路線があり、この南北の越美線を結び、日本海と太平洋を行き来できるようにする計画がありました。
 しかしそれは果たされることなく、国鉄はJRとなり、現在越美南線は第三セクターである長良川鉄道に、越美北線はJRの九頭竜線となっています。

 私にとり、この長良川鉄道は一度は乗ってみたかった列車です。
 父親が国鉄職員だったため、越美南線や高山線の駅で働いており、そのときの父の姿が蘇ってくるからです。
 父親はJRなる前に55歳で定年になり、その後しばらくの間、長良川鉄道に勤めていましたが、60歳で亡くなってしまいました。
 昨年、私も60歳になったことから、この正月は長良川鉄道で2時間かけてゆっくり景色を見ながら帰ることにしたのです。


 長良川鉄道で美濃太田から美濃白鳥駅までの往復料金(1,700円×2)より、1日フリーきっぷ(2,600円)の方が安いので、フリーきっぷを購入しました。


 関市、美濃市を過ぎると長良川に沿って線路は続き、郡上美並町に入るとゆっくりと景色を楽しむために徐行モードになっています(お座敷列車まであるようです)。


 みなみ子宝温泉駅のホームに温泉もあるので、途中下車し温泉に入り、次の列車に乗ることも可能です。


 郡上八幡を過ぎ、生まれ故郷の美濃白鳥駅に到着です。

 母親の過ごす特養老人ホーム

 父親が亡くなってから弟家族と同居していた時期もありましたが、その後一人暮らしをしていた母親が、10年ほど前に小脳出血で倒れ、一人暮らしが難しくなったので、私の家で同居することにしました。9年ほど同居した後に、本人の希望もあり、昨年(2019年10月)から生まれ故郷の特養老人ホームで過ごすことになったのです。同居しているときは、足が悪いため転ぶこともありましたが、ここでは安心です。しかも、故郷なので地元の親戚や友人も訪ねやすく、方言(郡上弁)も誰にでも通じます。
 すでに慣れたのでしょうか、母親は元気そうで安心しました。


 60歳になった現在、生まれ故郷に長良川鉄道で帰省し、50年ぶりに白鳥神社で初詣をしたことはひとつの節目になりました。
 ここで、自分のことを振り返ると、20代では当時発売されたばかりのPCでVARビジネスを創業(1980年代)し、 30代にはイスラエルテクノロジーの日本への展開(1990年代)を行い、 40代は外資系ITベンダーの日本法人のマネジメント(2000年代)をしていましたが、50代は仕事としての成果は何一つ残すことができず、親の介護を行ったことぐらいしかありません。



 その後、さびれた街を散策し、子供の頃に遊んだ長良川を眺めましたが、いつも潜って遊んでいた川の底を覚えていたり、鮎のたくさん釣れるポイントもはっきり覚えています。


 今年の夏は家族と白鳥踊り(郡上八幡の郡上踊りよりハイテンポ)にも参加しようと宿を予約しました。

 帰りの長良川鉄道は木目調の綺麗な椅子の特別仕様。

 2020年1月1日の長良川鉄道の旅は、60代のはじまりの節目になりました。

2019/11/24

【Japan】酔っ払い蟹と猫カフェれおん

 3年前に食べた上海蟹(横浜観光と上海蟹)の味が忘れられない、ということで、11月23日に横浜中華街に上海蟹を食べに行きました。

 前回は、偶然見つけた妙香寺で君が代の歌詞のルーツは薩摩にあることを知り、違和感を感じつつ、横浜観光をしました。

 今回は1泊せず、コースは前回とほぼ同じで、まずは石川町の猫カフェ 「れおん」で老猫、野良猫たちと戯れました。


 店長の「れおん」は3年前よりヨタヨタになりましたが、眠ってばかりでも、健在です。


 野良猫のようなキジトラが睨んでいます(笑)


 夜の関羽神社を通り、上海蟹が名物の三和楼に到着です。


 さっそく予約しておいた上海蟹の酔っぱらい蟹。
 3日間紹興酒に漬け込み雑味を吐かせ、紹興酒を捨てて、さらに2日間紹興酒と秘伝のタレに漬け込むそうです。前回はオスだけでしたが、今回はオスメス食べました。
 吸い込みながら食べる濃厚な味は、虜になりそうです。



 蒸した上海蟹は20分ほどかかるので、その間に普通の中華をいただきます(八宝菜となまこのスープ)。


 いよいよ蒸した上海蟹のオスメスがお出ましです。
 上海蟹は上品に食べることは不可能で、バリバリと食べたり、身をほじくったりと、とにかく少しの身でも食べる食べるの連続です。

 今回は、はじめて横浜中華街で手相占いをしてもらいましたが、生命線が長くくっきりしているので、まだまだ健康で活躍できるとのこと。

2019/09/21

【Japan】五色沼・会津磐梯山と郡上凌霜隊

 9月18日から20日まで秋の会津を訪れました。
 初日(18日)は車で5時間かけて裏磐梯レイクリゾートに到着しすぐに、午後2時半からの五色沼のトレッキングコースに参加しました。
 裏磐梯は1888年の磐梯山の水蒸気爆発による山体崩壊を起こし、川が堰き止められ数百の沼ができたものです。表磐梯の猪苗代湖は4万年前の水蒸気爆発によりできたもので、磐梯山は今までに大きな噴火は3回あったようです。


 裏磐梯のトレッキングはガイド付きで沼の特徴や五色沼の自然の状況を解説してもらったのですが、どうやら今年はクマの出没が多く、7月はガイド中に毎日クマに遭遇したそうです。クマに遭遇したときは、クマ鈴を止め、静かにクマの目を睨みながら後ろに下がるのがコツと説明を受けましたが、実際にクマに出会っていないので、不安は残ります。


 写真は天然のアケビで、裏磐梯ではたくさん取れるそうです。磐梯山の山小屋の主人によると、2011年の原発事故以来、山に人が入り山菜やキノコを取らなくなったせいで、食べ物が豊富になり、磐梯山では今まで見なかった猿、鹿、猪などが現れ、従来からたくさんいたクマがさらに増えてしまったとのこと。原発事故がこんな影響を与えているとはまったく知りませんでした...


 翌日(19日)は、早朝から磐梯山トレッキングの開始です。
 この八方台登山口コースは健脚の人で2時間で登頂の初心者コースとサイトなどには書いてありましたが、急で岩場が多く、久しぶりのトレッキングにはなかなかハードなコースでした。


 それに、信じられないことですが、10年ほど利用している登山靴の左足裏底のコムがひび割れ、剥がれてしまったのです。右足の足裏底も危ない状態になっていました。押入れの奥底にしまってあったので、ゴムが乾燥し劣化したのでしょう。
 こんなことは過去経験がなかったので、無事歩いて帰れるか不安でした。



 靴を気にしながら1,818mの頂上になんとか登頂。
 風が強く、寒かったのですが、さすがに360°の眺めは最高です。


 写真にあるように山体崩壊の跡が深く残っており、今後の噴火が気になります。しかし、1888年の噴火後は温泉が噴出しているようなので、ある程度のガス抜きはされているようです。

 裏底がないため左足が滑るのでゆっくり下山し、なんとか登山口に到着したときは靴の裏がほぼ剥がれるところでした。ワイフも久しぶりのトレッキングでしたから、結局午前8時に登頂をはじめ、下山まで6時間半かかりました(健脚の人で4時間弱のコース)。

 会津若松のワシントンホテルに移動し、会津若松市の居酒屋で軽い夕食。


鶴ケ城から眺める小田山

 最終日(20日)は筋肉痛の足を引きずりながら鶴ケ城を観光。
 詳しく知りたかったので、鶴ケ城の城内はボランティアのガイドの人に案内していただきました。その解説によると、新政府軍は小田山(鶴ケ城から直線で1.7km)に布陣し、多いときは日に2,000発もアームストロング砲(飛距離2km)で鶴ケ城に砲弾を撃ち込んだそうです。
 幕末の会津の歴史を考えると、薩長との戊辰戦争、その後の廃城命令から斗南での再興の扱いなど、腹立たしいものがあります。


 江戸時代に私の生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)を支配していた青山藩(4万8千石)は、新政府軍と徳川幕府のどちらが政権をとっても言い訳ができるよう、二股をかけるという戦略をとりました。

凌霜隊(りょうそうたい)やるせない結末~会津戦争を戦った郡上藩士たち

 「新政府に恭順すると見せかけ、幕府を支援する特殊部隊を組織して転戦させる」という郡上藩の生き残り策により、脱藩藩士45名で結成された凌霜隊が組織されました。
 藩からスペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲などの武器も与えられ、江戸家老の息子である17歳の朝比奈茂吉がリーダーとなり会津を目指したのです。
 途中、戦いつつ会津若松城に入り、松平容保(美濃高須藩からの養子)に謁見し、凌霜隊は会津藩所属と認められました。そして、白虎隊とともに西出丸の防衛しましたが、会津藩が降伏。

 そして、その後が惨めなのです。

 猪苗代での謹慎を命じられ江戸護送。郡上藩の預かりとなり、囚人駕籠に乗せられ罪人扱いです。鶴ケ城落城から1年後に新政府からの赦免を受けましたが、凌霜隊は故郷では受け入れられることなく、朝比奈茂吉や多くの凌霜隊の隊士は故郷を去ることになります。

 「明治元年10月12日、投降した凌霜隊員らは郡上藩預けと決し、郡上八幡へ護送されることとなった。 しかし、江戸から伊勢へ向かう途中、乗船した船が難破し、贄浦に上陸、11月17日、元凌霜隊員35名は郡上八幡城下に到着した。 藩では、元隊士を脱藩の罪人として扱い、赤谷の揚屋へ監禁した。赤谷揚屋は湿地に位置し、湿気が多く風通しも日当たりも悪く病気になる者も多かったため、場所の変更を何度も求めたが却下され続け、明治2年5月になって慈恩禅寺の住職らを中心とする城下寺僧の嘆願により城下の長敬寺に移され、元隊員らの苦難は軽減された。藩では当初、元隊員らを処刑するつもりであったが、9月、新政府の命令により自宅謹慎となり、翌明治3年2月19日(1870年3月20日)、謹慎も解かれ、赦免された。 しかし、罪人として処罰された元隊員達に対して周囲の態度は冷たく、元隊士らの多くは郡上八幡を離れた。」 Wiki 凌霜隊より

 郡上という村社会は、自ら組織したにも関わらず凌霜隊を受け入れることがなかった訳です。これは同質性を求める村社会ではよくあることですが、私の大嫌いな田舎の特質です。

 今回の旅のおかげで、孤立無援の会津の人たちとともに戦った生まれ故郷の人たちの足跡に触れることができました。

2019/09/07

【UK】Border Songと異邦人

 久しぶりの映画館での映画鑑賞で「ロケットマン」を観ました。
 ご存知のようにロケットマンはエルトン・ジョンの半生を描いたもので、特に初期の頃の歌が満載された映画です。クィーンの「ボヘミアンラプソディー」と比較される映画ですが、ロケットマンはミュージカルになっています。

 生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)にはレコード店はなく、少しだけレコードが置いてある楽器店が1件だけありました。1974年に創刊された「FMレコパル」を創刊号(1974年創刊、1995年廃刊)から愛読しており、そこに掲載されていた新盤アルバムの評価を頼りに、毎月1枚だけ、その楽器店でアルバムを取り寄せてもらっていました。

 当時中学生だった私は、夏休みに電気屋で働いたアルバイト代で購入したコンポステレオ(ONKYOのスピーカー、Pioneerのアンプ、Technicsのプレイヤー)で、そのアルバムを大音量で聴くのが楽しみで、クィーンもエルトン・ジョンも、当時ブームだったプログレッシブ・ロック(ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマーなどなど)もコレクターのようにアルバムを集めていたのです。

 高校生になる頃には、プログレッシブ・ロックも影を薄め、しばらくするとクィーンもブームが落ち着きましたが、エルトン・ジョンだけは定期的にアルバムを出していましたので、聴いていました。英語は聞き取れないのですが、音楽の傾向が聞き流しながら聴けるため、耳障りのないバックグランドミュージックとして聴き続けていた訳です。そのためか、聞き慣れた曲が多く、名古屋でビリー・ジョエルとのジョイントコンサート(1998年)にも行きましたし、東京でも日本武道館でのコンサート(2007年11月)にも行きました。

 特に初期の頃の吟遊詩人と呼ばれていた頃の歌が好きで、翻訳した歌詞を読むと、バーニー・トーピンの詩とエルトン・ジョンのメロディーが不思議にハーモナイズしているのです。


 今回の映画では、初期の頃の歌で大好きな「Border Song」も入っていましたが、この歌は字幕がなかったので、その詩を考えてみたいと思います。

 歌詞の最初が「Holy Moses」(聖なるモーセ)と投げかけています。
モーセとはエジプトで奴隷だったとされるユダヤ人を脱出(Exodus)させ、40年間も砂漠を彷徨い、パレスチナの地(ジェリコ)に導いたユダヤ民族のリーダーです(本人はジェリコに入る直前のネボ山で死去)。

 なぜ、最初にモーセなのでしょうか。

 英語で「gentile」という言葉があります。これは(ユダヤ人にとっての)キリスト教徒、異邦人、非ユダヤ人(教徒)などの「異邦人」を指します。

 エジプトにいたユダヤ人はエジプト人からすると異邦人になります。モーセはエジプトでは支配階級にいましたから、ユダヤ人奴隷のような異邦人の感覚は持ち合わせていなかったはずです。エジプトをExodusしたモーセは40年間砂漠を放浪することで偶像崇拝者の世代交代を図り、十戒を受け入れた人だけをヨシュアに引き継ぎ、ジェリコの街に攻め込ませました。そして当時、ジェリコに住んでいた人たちは民族浄化され(ヨシュア記)、モーセに引き連れられてきた12部族は自分たちの国を持つことができた訳です。

 さらに「gentile」はユダヤ人のイエス・キリストからパウロに飛びます。
 ユダヤ教はイエス・キリストにより原始キリスト教を生み出し、イエスの死後、弟子のペトロやイエスの兄弟のヤコブによりエルサレム教会派と呼ばれる分派が生まれました。ユダヤ人には律法である割礼、食物規定(生き物の肉は血抜きする律法)があり、エルサレム教会派はそれを遵守することが必須だと考えていました。

 しかし、シリアのアンティオキア教会にいたパウロはそれらの律法を守らずともイエスの教えを信仰することができるとして、gentile(非ユダヤ人である異邦人)にキリスト教を伝道しました。現在のようにキリスト教が世界宗教となったのはパウロの功績が大きく、キリスト教をパウロ教という人がいるくらいです。

 次に続く言葉が「I have been removed」で、「removed」(排除した)でなく、排除された(be removed)のです。つまり、自分の国を何らかの理由で脱出(Exodus)せざるを得なかった人が異国の地で異邦人として生きていたが、何らかの理由で排除されてしまった訳です。
 そして、次のパラグラフでは「I have been deceived」とあるので、そこで騙されもしました(been deceived)。
 さらに、次のパラグラフでは「I'm going back to the border」となるので、排除され、騙されたので、国境(Border)に帰るつもりだ、とあり、「I can't take any more bad water」「I've been poisoned from my head down to my shoes」もうこれ以上この異国の地で汚い水は飲めず、身体中に毒がまわった、とまで言っています。

 実はここまでがバーニー・トーピンの詩で、その次からはエルトン・ジョンが付け足したもののようです。基本的に彼らの曲作りは、詩をバーニー・トーピン、曲はエルトン・ジョンと分業が基本だと思いますが、この歌のバーニーの詩の意味は、彼の生まれ故郷がイギリスの片田舎で、ロンドンという都会に出てきて「排除され」「騙され」、ロンドンの水は汚く、故郷に帰りたい、という意味でのBorder Songだったようです。
 しかし、最初に「Holy Moses」とモーセに呼び掛けていることもあり、以下のようにエルトン・ジョンが加えた詩によって、ゴスぺルソングのような趣に仕上がっています。
 
 エルトン・ジョンの詩は「Holy Moses let us live in peace」にあるように、私たちは平和に暮らしましょう、「Let us strive to find a way to make all hatred cease」私たちはすべての憎しみがなくなる道を探す努力をしましょう、「There's a man over there what's his color I don't care」そこに(異国に)いる人の肌の色が何であっても、私は気にしない。「He's my brother let us live in peace」彼は私の兄弟、平和に暮らしましょう、と締めくくっています。

 私が適当に訳したものですが、日本語訳を見ながら曲を聴くと「詩とメロディー」が実に合っているのです。

Holy Moses I have been removed
聖なるモーセよ、私は排除されてしまった
I have seen the specter he has been here too
私はこの場所にも、心に浮かぶ恐ろしいものがあることを知りました
Distant cousin from down the line
遠く離れた国境を越えたところに従兄弟もいるけど
Brand of people who ain't my kind
ここにいる人々と、私とは違う人たち
Holy Moses I have been removed
聖なるモーセよ、私は排除されてしまった

Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私は騙されてきました
Now the wind has changed direction and I'll have to leave
今、風向きは変わり、私はここから去らねばなりません
Won't you please excuse my frankness but it's not my cup of tea
どうか私の素直な思いをお許し下さい、しかし、それは私が好んでいる訳ではありません
Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私は騙されてきました

I'm going back to the border
私はこの国境を超えていくでしょう
Where my affairs, my affairs ain't abused
そこにはなすべき仕事があり、私の仕事は悪用されることはありません
I can't take any more bad water
私はもうこれ以上、汚い水を飲むことはできないのです
I've been poisoned from my head down to my shoes
私は既に、頭の上から足の先まですっかり毒されています

Holy Moses I have been deceived
聖なるモーセよ、私はずっと騙されていました
Holy Moses let us live in peace
聖なるモーセよ、私たちに安らぎを与えてください
Let us strive to find a way to make all hatred cease
私たちに全ての憎しみがなくなるよう、努力するための道を示してください
There's a man over there what's his colour I don't care
そこにいる者の肌の色が何であろうとも、私は気になりません
He's my brother let us live in peace
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。
He's my brother let us live in peace
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。
He's my brother let us live in peace 
彼は私の兄弟、私たちは平和に暮らしたいのです。


 前半のバーニー・トーピンの詩はユダヤ人の選民的な思想(モーセの十戒、エルサレム教会派の律法へのこだわり)に対する嫌味をモーセに対して訴えているのでしょうか。後半のエルトン・ジョンの詩ではモーセに懇願しつつ締めくくっています。

 この歌をアメリカに渡り移民として暮らすヒスパニック系の人が聞いたらどう思うのでしょうか。シリア難民となり、ドイツに暮らしている移民はどう思うのでしょうか。6日戦争でイスラエルに追い出されヨルダン川を渡りヨルダンに移住した人やレバノンで難民となった人はどう思うのでしょうか。ユダヤ人が入植することで土地を失ったパレスチナ人はイスラエルの占領地でどう思うのでしょうか。そして、日本にいる外国人労働者はどう思うのでしょうか。

 何らかの事情で異邦人になった人たちで、排除され、騙され、希望を失い、この歌のようにBorder(国境)に戻ることができる人はいいのでしょうが、戻れない人も世界にはたくさんいます。

 Border Songはクイーン・オブ・ソウルと呼ばれるAretha Franklin(アレサ・フランクリン)にもHoly Mosesとしてカバーされています。公民権運動にも関わった彼女が歌うと完全なゴスペルソングとしての説得力がありますね。


 ちなみに、エリック・クラプトンのカバーもあります。

 

 中学生の頃から聞いていた音楽を聴くと、自分自身のストーリーが頭をよぎってきます。

 自分の中で、生まれ故郷(岐阜県郡上市白鳥町)から出ようと思ったのは、排除されたり(be removed)、騙された(been deceived)訳ではありませんが、どこか自分は浮いているな、という疎外感のようなものを感じ、この地では「壁」を超えられない、と思ったからです。次に名古屋で会社を作り仕事を続けましたが、この地でも自分は浮いていると感じ東京に引っ越し、現在に至っています。

 1970年に発売されたBorder Songは、現在のグローバルで大きな問題である移民・難民(異邦人)の共通課題を浮き彫りにしているが故に、現在の自分に染み込む詩とメロディーなのです。

 日本ではじめて発売されたシングルはこのBorder Song(全米ビルボード92位)で、日本語訳は「人生の壁」と訳されていました。

 この映画を観て、はじめて、「Captain Fantastic」と「Brown Dirt Cowboy」の曲をひとつ自分で翻訳してみましたが、ひとりではなく、二人だからこそ成し得ることは大きいものだ、と改めて実感しました。

2018/12/10

【Japan】七沢温泉のボタン鍋(猪鍋)と江の島の野良猫


 2018年12月9日(日)、10日(月)と丹沢山麓の七沢温泉に1泊の旅行に出かけました。旅行というほどの距離ではありませんが、丹沢山系は日本で一番山蛭の多い地域なので、鹿や猪などのジビエがたくさん生息しています(写真はどこの田舎にもありそうな七沢川の風景)。


 七沢温泉は豪華な温泉街でもなく、近所の人たちが法要などで利用する温泉宿が数件ののどかな温泉地です。お湯はツルツルの美人の湯系の泉質で、料理はジビエなどの山の幸と相模湾から獲れた新鮮な魚が食べれる温泉です。お気に入りの宿は大山登山(丹沢大山と小林多喜二)で偶然知った福元館(宿の部屋の電話は懐かしのダイヤル式)。


 とにかくボタン鍋(猪鍋)が食べたくて訪れたのですが、ボタン鍋なのに今回は牡丹の花が咲いていないのです。


 前回(ボタン鍋とペンシルロケット発射場)訪れたときのボタン鍋(猪鍋)の上の写真と比較しても一目瞭然の違い。宿の人に理由を尋ねると「板前さんが変わった」とのこと...


 イワナの塩焼きですが、これは前回はなかったものなので、牡丹の花のようなボタン鍋が、脂身の少ない猪肉に代わったことによって追加されたメニュー...
 とにかくがっかりしてしまって、猪肉をネットで取り寄せて自分で作ることを決心し、美味しい味噌出汁の味を舌に残すことに徹しました(笑)
 相変わらず温泉は気持ちよかったので、何度も入り、疲れを癒し、翌日は江の島を目指しました。バスや電車を乗り継いでゆっくりとした平日の旅です。


 相模湾は波が穏やかで観光客も少なく、名物のトンビを眺めながら江の島に向かいます。


 江の島と言えば野良猫ですが、神社の近くにたくさんいた野良猫は1匹もいません。野良猫用にコンビニ猫餌を買ったのに残念、と思いつつエスカレーターで江の島を登り、中腹に着いたら、野良猫が茂みに1匹たたずんでいました。



 少し行くとお茶屋さんの店の中に太った野良猫が数匹いました。餌をたくさんもらっているようで、丸々と太った野良たちです。お茶屋さんで野良猫の写真が売っていて、その売り上げを餌代にしているようです。


 ボタン鍋は残念でしたが、心地よい温泉と野良猫に癒されたのどかな休日になりました。さっそく帰ったら猪肉やら鉄鍋などを検索し注文しました(笑)

2018/10/08

【Japan】タヌキとキツネと本白根山の紅葉


 嬬恋プリンスホテルの無料宿泊券をもらったので、10月7日、8日と紅葉真っ盛りの本白根山周辺の嬬恋プリンスホテルと万座プリンスホテルを訪れました。

 新幹線で高崎まで行き、そこからレンタカーで嬬恋プリンスホテルを目指しました。途中、幕末の役人であり、明治のグランドデザインを描いた、大好きな小栗上野介の権田村を通過したので、ちょっと寄り道です。


 権田村の河原で処刑された小栗上野介は、騒ぐ村人たちに対し「お静かに」という一言で露と消えました。その処刑場に立つ旗は台風の影響からか破れてしまっています。


 胴体だけ埋葬された東善寺も訪れましたが、養子の又一と並んだ墓石はいつみても心が痛みます。処刑された首は別の場所に埋葬されていたようですが、1周忌に村人が掘り出し(盗み出し)てこの墓に埋葬したそうです。小栗の人柄が偲ばれますね。


 嬬恋に行く途中で草津温泉に立ち寄り、村民も利用する無料の温泉「白旗の湯」に入りました。中には2つのお湯があり、熱い方は午前中は46.5℃とのことで、江戸っ子の好む熱さではありますが、私は一瞬で降参です。少しだけ低い湯(おそらく44℃ぐらい)に浸かり、相変わらず気持ちがいい草津温泉に満足満足。


 草津のお湯はいくつか種類がありますが、白旗の湯が「源頼朝」が好んだ湯で、近くに源泉があります。


 さて、嬬恋プリンスホテルに着いてまた温泉ですが、無色透明で草津温泉とはまったく違う湯質です。浅間山と本白根山が左右に見え絶景の温泉です。

 夕食はレストランで、コース料理をアルザスワインとともにいただきましたが、テーブルの番号札にタヌキの写真があったので、お勘定のとき「タヌキが来るのですか?」と尋ねたら、夏場はほぼ毎日レストランの庭に出没しているそうです。餌付けしているのかは分かりませんが、親子タヌキの写真がレジに貼ってありました(笑)


 翌日は万座プリンスホテルの温泉に入るため紅葉の道路をドライブです。途中で野生のキツネがふらふらと車に寄ってくるので、車を止めると、こちらに走って向かって来るのです。すぐ近くまで来てズボンの匂いを嗅いで、何か食べるものを欲しています。写真は私たちが何の食べ物も持っていないと分かり他の人の方に行くところです。きっと誰かが餌付けしたのでしょうか...


 万座プリンスホテルまでの道のりは紅葉スポット満載です。忙しい毎日を忘れ自然に接するとストレスが溶けていきます。

 硫黄臭の強い万座ホテルの露天風呂に入ると注意書き、「キツネに噛まれるので手を出さないでください」「キツネを見かけたらフロントまで」とありました。ホテルの露天風呂にもフラフラ出現しているのですね。


  本白根山周辺の2つのホテル。嬬恋プリンスと万座プリンスにはそれぞれタヌキとキツネが健やかに過ごしています。交通事故に遭わないことを祈りつつ、朝採れの新鮮なキャベツを購入して帰路に着きました。

2017/12/04

【Japan】浅草の落語と人形町のすき焼き


 12月3日、4日と浅草観光に出かけました。
 1日目は浅草演芸場で落語を楽しみ、水天宮のロイヤルパークホテルに1泊。
 

 翌日は水天宮と人形町の中間にある小網神社にお参り。
 この神社は社殿を含む建物全部が東京大空襲の戦災を免れたり、第二次世界大戦の際、この神社の御守を受け戦地に赴いた兵士が全員無事帰還したことなどから、強運厄除の神様として崇められるようになったそうです。


 また、「銭洗いの井」で金銭を清め、財布などに入れておくと財運を授かることから「東京銭洗い弁天」とも呼ばれています。


 甘酒横丁で甘酒を飲み、美味しそうなガンモを購入。


 十数年ぶり(前回は浅草店)に今半のすき焼きランチをいただくことにしました。


 今半はランチでも仲居さんが作ってくれるので、焼いている写真は撮りにくい(笑)


 肉はもちろんですが、千住葱の甘味が実にいい。旬だからこその味ですね。最後の〆はすき焼きを焼いた鉄鍋の残った出汁と肉の旨味で作ったフワフワ卵丼。二口ほどのご飯に乗せ、山椒を少々振って食べる。絶品!

 横浜に住んでいると感じることのできない江戸の面影と香りがする2日間でした。