2020/12/04

【Japan】神田川関口から隅田川両国橋

  6月20日に神田川の源流から関口芭蕉庵(神田川源流から関口芭蕉庵の古池)までを歩きましたが、今日はその続きで、関口から神田川を下り、隅田川の合流地点までウォーキングしました。


 ここからの神田川は関口までの流れと違い、写真のように大きな用水路が続くだけで、川そのもには何の面白味もありません。


 この地図にあるように、神田川は江戸城の外堀と一旦合流し、神田川本流と江戸城の外堀に流れる支流に分岐します。


 飯田橋の陸橋からの神田川の眺めですが、右側はダイワハウスのビル。
 

 ここで右に分岐した流れは江戸城の外堀に流れ込みます。


 東京ドームや後楽園ホールに行くときに渡る後楽園ブリッジからの神田川。実に味気ない風景です。


 途中、神田川を水路にした物流拠点の河岸があります。


 水道橋からの神田川。左の紅葉と川の静かな流れ。



 水道橋を超えての紅葉と中央線。神田川岸は緑も多い。


  聖橋。以前は鉄骨の美しいアーチで構造計算美さえ感じた佇まいでしたが、今は保護コンクリートの味気ない姿になってしまいました。




 江戸時代の徳川綱吉創建の儒教の教育拠点である湯島聖堂。孔子が祀ってあります。湯島聖堂という名前は知っていましたが、こんなところに存在し、護国寺と同じように徳川綱吉が創建したことは知りませんでした。


 昌平橋からのレンガ作りの総武線。こういうレンガ作りの線路の土台を残しているところが東京らしいですね。



 神田川と隅田川の合流地点(柳橋から撮影)。



 両国橋から見て、左から神田川が隅田川に合流。正面には東京スカイツリーがそびえ立ちます。神田川の水量と隅田川の水量の違いに驚く地点で、一気に開けた気分になります。



 生牡蠣のバター焼きと定番の明太子もちチーズ。


 両国から久しぶりに月島に移動し、イカ墨もんじゃというものをはじめて食べてみました。ご飯の入った黒いもんじゃは食べ物とは思えませんが、ニンニクとバターで香ばしく、カリカリの焼きリゾットみたいで、結構イケます。

 関口から隅田川の合流地点までは2時間半のウォーキングコースでしたが、天気が快晴で、太陽が心地よく、ビタミンDがたっぷり補填されました。

2020/11/27

【Japan】肥後細川庭園でカワセミ発見!

  11月27日は有給休暇だったので、人混みの少ない午前中に秋の肥後細川庭園へナノツアーをしました。神田川も椿山荘も終わりかけの紅葉で、冬が近づいている空気を感じつつ、肥後細川庭園に入ると、池の周りに3、4名のカメラマンが望遠カメラを眺めながら何かを撮影していました。撮影者のひとりに「何の撮影ですか?」と尋ねると「カワセミがいる」と。



 「えっ、カワセミ」と驚き、スマホのカメラを向けて撮影したのがこの写真です。拡大すると写真真ん中の池に張り出した(下の)枝に青いカワセミが写っています。写真撮影している人に場所を教えてもらったお礼を言うと、上記のような肥後細川庭園で撮影した6枚の自慢の写真をいただきました。過去に、小田原の酒匂川下流でホバリングしているカワセミを見たことがあるくらいで、まさか都内の公園で見るとは思いませんでした。
 サギが近くに飛んできたため、このカワセミは飛び立ち、写真撮影していた人たちは無事安心してランチタイムとなったようです。一日中このカワセミを観察しているのでしょうね(笑)


 その後、雪吊り作業も終わった庭園と庭続きの森林を抜け「永青文庫」に入館しました。


 展示テーマは「明智光秀」で、織田信長が細川藤孝(細川ガラシャの夫)や、明智光秀(細川ガラシャの父)に宛てて書いた手紙がたくさん提示されていました。もちろん、いずれにも「天下布武」の黒印、赤印などが捺印された本物です。

 織田信長は明智光秀の「報告業務」を褒め称えた手紙が多いのには驚きました。部下として明智光秀は丁寧に性格に上司である信長に報告業務を怠らず。そこから信頼を勝ち得たのではないかと推測されます。
 しかし、信長の業務命令の手紙は、いついつまでに何を行え、という具合に期限と実行することを命令し、アウトカムにフォーカスするリーダーシップで、明智光秀は部下に「ある程度の手段も示し命じる」というリーダシップだったようです。アウトカムだけを求められ続けるリーダーシップと明智光秀のリーダーシップの違いが、信長に対しての裏切りとなったのではないか、という仮説も示されていました。
 真相は分かりませんが、永遠の謎であった方が多角的に捉え続けることができ、後世に役に立つのかも知れませんね。


 細川庭園の隣が芭蕉庵なので少し立ち寄り、その後、近所の美味しい焼き鳥屋さんで教えてもらったビストロ「TeF」でランチにしました。



 かぼちゃのスープと山形豚肉のソテー(バルサミコミコとマスタード)の2品のランチコースですが、パンはもちろん、いずれも美味しく、特に盛り合わせの野菜の蒸し焼き具合が絶妙で美味しかった。フレンチならではの野菜の美味しさを引き出した料理でした。


 帰ったら、生後7ヶ月のアロン(左)とハロウィン気分の抜けきれないライラ(右)がお出迎えしてくれ、肥後細川庭園の旅は終わりです。

2020/09/21

【Japan】根津神社と森鴎外記念館への旅

森鴎外

  以前、横浜市の日吉に住んでいる頃、横浜観光(横浜観光と上海蟹)で、「君が代」の発祥の地が横浜の妙香寺だということを知りました。今回は文京区の森鴎外記念館で、森鴎外の意外な側面を知ることができましたので、まとめておきます。

 まずは、バスで根津神社を訪問しました。





 根津神社は、1900年前にヤマトタケルが創祀したと伝わる歴史ある神社で、写真のようにたくさんのツツジがあることで有名です。

 おみくじを引いてから、団子坂を目指して歩きます。
 団子坂を登り切ると、文京区立の森鴎外記念館があります。この地は、森鴎外が30歳のとき(1892年)に住みはじめ、亡くなる1922年まで家族と暮らした家(観潮楼)の跡地です。ちなみに、閉館した上野の鴎外荘は20代の頃に住んでいたところです。


 写真は、上野の鴎外荘で書かれたという「舞姫」のモデルであるエリスの像で、森鴎外記念館の外(観潮楼の入り口側)にあります。ご存知のように森鴎外は陸軍医でドイツに留学し、帰国後「舞姫」を執筆(1890年)しましたが、その頃、1度目の結婚(1889)をしています。

 ドイツではエリスという女性と付き合っていたようですが、彼女は帰国した森鴎外を追って来日したそうです。

    1888年:エリスが来日
    1889年:1度目の結婚
    1890年:「舞姫」発表

 1888年、ドイツ留学から鴎外が帰国して間もなく、はるばるドイツから、気丈にも、たった独りで鴎外を追って来日したエリスという若い女性がいた。森家存続の危機とばかりに、親族一同、彼女を宥めすかして帰国させたと記録にある。明治の始め、国家の未来を背負ってドイツに官費留学した若き鴎外は、探究心と自負心と愛国心を胸に研究に励み、当時の日本人には珍しく欧州の文化にも溶け込んで日々の生活を目一杯楽しんだ。そして永遠の恋人・エリスと出会った。
 エリスとの結婚は当時の国状や親族の心情からも到底不可能で、鴎外は親の勧めで、海軍中将赤松則良の長女登志子さんと結婚したが二年と持たずに離婚した。その時の鴎外の心情を伝える資料が、今回、発見されたというのだ。 森鴎外の離婚 鴎外、気性合わず別居 元妻親族の史料見つかる

 「舞姫」は、確か高校時代の国語の教科書にもあり、「石炭をば早や積み果てつ。」は未だに記憶に残っている書き出しですが、そのストーリーは、はっきり言って「ダメ男」というイメージしかありませんでした。
 

「舞姫」あらすじ(3分動画)

 エリスを発狂させたのは、ファウストに登場するマルガレーテ(グレートヒェン)からの脚色でしょうが、男を追いかけドイツから来日したエリスはその後どうなったのでしょうかね。

 森鴎外記念館の映像コーナーで、森鴎外を研究している文京区出身の女性は、森鴎外が如何にフェミニストであったかを、例をあげて解説していました。今までの私の森鴎外のイメージは、「舞姫」の主人公である豊太郎のイメージだったのですが、今回の森鴎外記念館で、鴎外が意外にもフェミニストだということを発見したのです。

 鴎外が女性作家を高く評価していたのをご存じですか?
 明治の女流作家といえば一番に挙がるのが樋口一葉です。『たけくらべ』は鴎外が主催する文芸誌『めさまし草』で幸田露伴、斎藤緑雨と3人の合評で絶賛しています。また与謝野晶子にはフランスへの渡航費用の工面を助けたり、『源氏物語』の訳の校閲を援助するなど表現者としての女性への活動に積極的に関わっていました。
 また女性の権利を主張する運動にも鴎外は理解と応援をしています。『青鞜』を創刊した平塚らいてうを高く評価し、海外の女性運動を紹介するなど「明治の男」のイメージとはかけ離れた時代の先端を行く溌剌としたカッコ良さを感じます。 妻も作家に! 鴎外は明治のフェミニストでした




 次に谷中銀座商店街で鰻を食べ、日暮里に向かって歩きましたが、想像以上に人通りが多いのには驚きました(また数週間後に新型コロナ陽性者が増えそう)。


 途中、何匹か商店街の飼い猫を見ましたが、日暮里駅のロゴが猫デザインなので、谷中銀座商店街近辺は猫が多いのでしょうか。


 前回の横浜観光(横浜観光と上海蟹)のときは、猫を飼っていなかったので、中華街で上海蟹を食べて横浜で1泊しましたが、6月28日から飼い出した2匹の子猫笑にゃんこ王国とテレワーク)が700gから、アロンは2.7Kgとライラは3.1Kg、と順調に成長しており、もう少し彼らが大人になったら泊まりの旅をしたいと思います。

2020/06/28

【Japan】笑にゃんこ王国とテレワーク

 6月19日から東京都の緊急事態宣言解除からの県外移動も可能になったので、21日、22日と近場の秩父に1泊のマイクロツアーに行ってきました。


 今回の旅は、秩父にある笑にゃんこ王国(ニコニャンコ)の主催する子猫譲渡会に参加することが目的です。東京都内にも保護猫を保護する団体は各区にありますが、都内には子猫は少なく、子猫の譲渡会では笑にゃんこが有名です。
 秩父は野良猫が多く、農家の納屋などで親猫が子猫を育てたりしているようで、春には保護猫が多く笑にゃんこに持ち込まれます。保護される大人の猫も100匹ほど飼われていて、年間で半数は引き取られるようなので、こういう団体の存在は貴重です。


 今回は秩父動物病院で子猫が30匹ほどの譲渡会でした。生後すぐの子猫もいましたが、人懐っこい子猫ばかりで随分迷ってしまいます。2時間ほどかけ、生後2ヶ月の2匹の子猫を選びました。私たちは名古屋に住んでいたときからMax10匹ほどの猫を飼っていました。3年ほど前に最後の1匹が21歳で亡くなり、しばらく猫を飼うことはない、と思っていましたが、今回の新型コロナで通勤の満員電車を避けるため東京都内に引っ越すことを決めた段階で、また猫と一緒に生活して、テレワークをさらに愉快にしよう、と考えた訳です。

 笑にゃんこの譲渡会で選んだ猫は、すべて団体の代表が届けることになっています。選んだ猫をちゃんと育てない輩もいるのでしょうか...すべての里親の環境を確認するシステムなのです。やれそうでやれない根気のいるシステムですが、譲渡される猫にとっては必要なことですね。

 そして午後は、秩父名物の蕎麦を食べ、秩父で有名な荒川の長瀞に向かいました。


 曇りでしたが、長瀞の船下りを満喫しました。荒川の上流の長瀞地区は岩盤がむき出しになった珍しい地形で、船下りの景色が独特です。


 船頭さんが激流を通り抜けて行きます。


 この濁流は、奥美濃大橋から岐阜県の長良川の濁流の撮ったもので、長瀞の川下りは、子供の頃、雨で増水した長良川をトラックのタイヤのチューブに尻を突っ込んで上流から数キロ下る、という危険な川遊びを思い出させました。
 川沿いにあるお好み焼き屋のおばさんが、タイヤを持って上流に歩いていく小学生数人に「危ないから、止めろ〜」と叫ぶ声を無視し、上流から濁流を下るのです。ライフジャケットも着けず、転倒したら川の石で頭を打つか、溺れ死ぬかも知れないのですが、田舎のガキはそのようなことはリスクとは感じない訳です。
 それからすると、長瀞の川下りは安全です。


 新型コロナの影響で営業している温泉が秩父では少なく、今晩は温泉付きの宮本の湯に宿泊しました。翌朝は宿が企画している野菜収穫体験サービスでじゃがいもと玉ねぎを袋いっぱい詰め込みました(笑)


 秩父名物のひとつに、イチローズモルトのベンチャーウイスキー秩父蒸溜所があります。工場見学などはできないようですが、蒸溜所まで訪ねてみました。オフィスに電話して販売先を確認すると、蒸溜所では販売許可がなく、秩父道の駅、あるいは矢尾百貨店などで販売しているとのことで、ブレンディッドウイスキーを1本手に入れました。


 笑にゃんこの代表さんから27日に届けられた2匹は我が家にすぐに慣れ「遊んで、寝て、食べて」で1日を過ごし、翌朝はふたり疲れてベットで寝ています。

 写真上はグレーのハチワレのオスで、名前はヘブライ語の Aaron アロン אַהֲרֹן、Zoomミーティングでは口ベタな私をアシスタンスをする日も来るかも知れません(ちなみに、アロンはモーセの兄の名前)。甘えん坊のアロンはスリスリしながら私のお腹の上ですぐ寝てしまいます。

 写真下はアメショーMIXのメスで、名前はアラビア語のLila Lyla ライラ ليلى  今までクロという名前の猫を2代飼ってきたのですが、今回は3代目クロでなく、グローバルに通用するようにアラビア語で「夜」を意味するライラになりました。元気いっぱいのおてんばです。

*2020年7月3日に動物病院でライラが「♂」ということが判明(笑)秩父の保護団体では「♀」と言われていましたが、ライラと呼ぶとこちらに来ますので、名前は変えず、元気いっぱいのわんぱくとしてたくましく育ってください。

2020/06/20

【Japan】神田川源流から関口芭蕉庵の古池

 6月20日(土)は、朝早く起きて神田川源流から関口芭蕉庵までの細道を歩くマイクロツアーをしました。


 吉祥寺の井の頭公園に朝7:00に到着し、徳川家康が好んで茶をたてた水である「お茶ノ水」の湧水付近を散策しました。井の頭池はいたるところにある湧水で満たされた池のようですが、江戸市民の命の水源でした。そして、現在は武蔵野の鳥たちの住処(以下は卵を5つ抱えた親鳥)でもあります。


 井の頭池から神田川の源流ははじまります。私の生まれ故郷が岐阜県の長良川の上流にあり、太平洋に流れ込む長良川と日本海に流れ込む庄内川の源流があるためか、川の源流は妙に訪ねてみたくなるのです(笑)



 神田川沿いはかなり整備され、地域住民のランニングやウォーキングのコースになっています。



 川のせせらぎと鳥のさえずりを聞きながらのウォーキングは実に心地良いものです。


 この写真をよく見ると、親ガモの周りに生まれたばかりの子ガモが泳いでいます。数えると7匹いましたが、「数日前は9匹いた」という近所の人の雑談が聞こえてきました。川辺にカラスもいたので、襲われたのかも知れません。これ以上減らないことを祈りつつ、先に進みます。


 これもよく見ると、鯉と2匹の亀が見えますが、手前はスッポンです。誰かが放流したのかも知れませんね。

 江戸時代には、神田川が流れ込む隅田川で獲れた鰻を「江戸前」と呼んでいたようなので、隅田川の支流の神田川でも鰻が獲れたのではないでしょうか。
 

 神田川は源流の武蔵野市から杉並区へ移ると、桜並木がきれいに植え込まれていますので、桜の季節はきっと素晴らしいのでしょうね。


 途中、増水したときに水を逃がす取水抗があります。工事の影響でここから川の水が濁っていますが、杉並区を抜けると中野区に入ります。


 善福寺川(左)と神田川(右)が合流します。
 三鷹市と杉並区は神田川に沿って遊歩道を整備し、地域住民のランニングやウォーキングの場にしているのですが、中野区に入ると神田川に沿って住宅が続き、川沿いを歩くことができなくなります。区が何の規制もしなかった結果だと推測できますが、なんとも勿体ない話です。神田川は区民が自然とふれあいながら健康増進できる「貴重な場」とは考えていないのかも知れません。


 都庁が見えてきましたので、新宿区に入ります。大久保を過ぎたあたりで、中華料理の昼ごはんを食べて再び歩きはじめました。


 高田馬場にも取水場があります。JRの高田馬場駅の近くで神田川沿いの道が途切れ、高田馬場で少し迷ってしまいました。


 これは遡上する魚のために用意されている魚道ですが、神田川には毎年鮎が遡上し、高田馬場付近で捕獲されているとは驚きです。
 どうやら東京湾の鮎の産卵場所は、お台場で人工的に作られた海辺という説があり、お台場が整備されたからそこで産卵した鮎の稚魚が大量に多摩川や隅田川に遡上しているのでしょう。友釣りや投網で捕獲することもないため、その数は年々増えるばかりでしょうね。


 新宿区から文京区に入ると途端に川の様子が変わります。写真のように岩を削ったような川底になり、まるで渓流の様相になります。川沿いの道も整備され、肥後細川庭園から芭蕉庵、そして椿山荘と江戸や幕末の情緒を残した歴史遺跡が川沿いを飾ります。


 今日の目的地である関口芭蕉庵に到着しました。朝7時半ごろ神田川の源流を出発し、三鷹市、中野区、新宿区、文京区を歩き、14時半に到着です。ランチや高田馬場での道迷いも含め7時間半、38,165歩のウォーキングでした。


 芭蕉庵に入ると、

「古池や 蛙飛び込む 水のおと」

という有名な句が刻んだ石碑があります。

 松尾芭蕉は土木技術者として、神田川上水の改修工事のため、関口に住んでいました。この関口の芭蕉庵はその時の住居を移築したものです。

 「古池や 蛙飛び込む 水のおと」という句は、実際に蛙が古池に飛び込んだのを芭蕉が見て読んだ句ではありません。芭蕉は「蛙が飛び込む水の音」を先に聞いて、その後に心のイマジネーションで「古池や」を付けたと言われています。つまり、古池の句は現実の音をきっかけにして心の世界が開けた句で、その句を読んだ人の心にもそれぞれの情景で、古池と蛙と音がイマジネーションされる訳です。

 古池以前の俳句は言葉遊びだったらしく、芭蕉が古池で得た境地はまさに新しい俳句の流れだった。芭蕉は神田川が流れ着く隅田川のほとりの芭蕉庵から、この発見をさらに試そうと、西行の歩いた「みちのく」への旅に出たのです。

 松尾芭蕉の理念である「不易流行」は経営や商品開発を含めいろいろなシーンに役に立つ考え方ですが、ブリタニカ辞書には以下のように解説されています。

【不易流行】
 一般には句の姿の問題として解され,趣向,表現に新奇な点がなく新古を超越した落ち着きのあるものが不易,そのときどきの風尚に従って斬新さを発揮したものが流行と説かれる。しかしまた,俳諧は新しみをもって生命とするから,常にその新しみを求めて変化を重ねていく流行性こそ俳諧の不易の本質であり,不易は俳諧の実現すべき価値の永遠性,流行はその実践における不断の変貌を意味するとも説かれる。

 今まで、言葉遊びだった俳句を心の中のイマジネーションの世界に変化させて行った流行性こそ、不易の本質であると捉えていたのですね。
 恐るべし、土木技術者!


 ちなみに、文京区立の関口芭蕉庵の「古池」の句碑の後ろには写真のような古池がありました。「古池がない」ことこそ芭蕉の俳句(不易流行)の本質なんですよ。文京区役所のご担当者さん(笑)

 関口芭蕉庵から隅田川までは7kmぐらいなので、次回は冬にでも深川の芭蕉庵を訪ねるウォーキングをするつもりです。