GWの4月30日は、武者小路実篤の理念を実践している新しき村(埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫423番地1)を訪ねてみました。ロシアによるウクライナ侵攻以来、イスラエルのキブツを研究しはじめたのですが、日本にもキブツのような村落共同体があり、その中でも、歴史があって、怪しげな宗教的でないコミュニティーとしての新しき村の存在は貴重です。
財団法人新しき村のWebサイトによると、新しき村は、1918年に宮崎県児湯郡木城村に誕生しました。この村は高い山々に挟まれ、三方を川で囲まれた土地であったため、外部との行き来は舟に頼っていました。約20年後、その地形ゆえに、この地に発電所が建設されることとなり、村の土地の半分がダムの中に沈むことになってしまいました。
そのため、1939年(昭和14年)、埼玉県毛呂山町に新たな土地4,000坪を得て、「東の村」として再出発することになり、宮崎県の村は、残った土地に2家族が住み、「日向新しき村」として現在もその活動を続けているようです。
今回私が訪ねたのは、埼玉県の武州長瀬駅から徒歩30分ぐらいにある新しき村です。
写真は新しき村近くの畑の風景ですが、のどかな春の田畑の風景には心が安らぎます。
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田んぼに水を引く季節 |
子どもたちが遊んでいます。そろそろこの子どもたちの家族の住む新しき村が近づいてきたのでしょうか。
新しき村の美術館。拝観料が200円で月曜日が休館とあります。この中には武者小路実篤の書や絵画などが展示されています。
館内で300円で販売している新しき村を紹介した冊子ですが、この裏表紙には、武者小路実篤が書いた以下のような新しき村の精神が掲載されています。
一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。
一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽、幸福、自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない。
一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとる事で全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ正しく生きられ、天命(個性もふくむ)を全うする道を歩くように心がける。
一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ全世界の人が實行する事を祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である、我等の兄弟姉妹である。
一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入る事で、入ろうとすることで、それ等の人が本当に協力する事で、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
この精神は、「自他共生」という言葉に凝縮でき、もう一言付け加えると「個人も生き全部も生きる」世界だとしています。
そのために必要なものは、第一、肉体的生命を保つこと。健康な衣食住が必要で、病気のときの用意、天災のときの用意、その他人命を地上に少しでもとどめておくことができるように骨折ることが必要だ、と。
義務労働は1日6時間とし、自由な時間は各自勝手で良いが、他人の独立性を害しないように、と新しき村での生活のルールや考え方について、武者小路実篤が文学的文章できれいにまとめています。
この小冊子によると、新しき村ができた頃は、一番若いのが16、17で、一番年上が43、44とあり、武者小路実篤が33歳の頃にできたことになります。
Wikiにある以下の記述からも、武者小路実篤は、理想のコミュニティーを作ろうとしたのでしょうね。
武者小路の「新しき村」の構想は中国共産党主席毛沢東に影響を与えたことで知られる。周作人は『新青年』に「日本的新村」という論文を載せ、毛沢東は「新村」に傾倒した。
東京大学教授の平野聡は、SAPIO2015年6月号で、「白樺派の作家・武者小路実篤は、社会問題を解決して博愛の心を育むため、個人が財産を放棄して共有財産とし、集団生活で平等な共同体を実現する「新しき村」の理想を説いた。中国共産党の国家主席・毛沢東は武者小路の考えに激しく共鳴して、格差が蔓延する中国において、武者小路が実践した平等・博愛精神あふれる「新しき村」を作ろうとして、やがてマルクス・レーニン主義に傾倒した。」としている。
この小冊子では、新しき村と他の主義として、武者小路実篤は以下のようにまとめています。
新しき村と社会主義とはどこが同じで、どこが異なるのか。自分は社会主義のことははっきりは知らない。だからどこが同じで、どこが違うか知らない。ただ新しき村と同一なところが社会主義にあればそれは社会主義のいいところで、違う点があればそれは社会主義の悪いところだと思っている。どっちにしろ新しき村の仕事は経済問題を解決するのが目的ではない。第一の目的は人間らしく生きるという点にある。真心を生かすというところにある、正しい生活をもとめるところにある、パンの問題はその解決に従って自ずと解ける問題にすぎない。
我等は共産主義というよりは協力主義というべきである。人間らしく今の世に生きられるよう協力するのが新しき村の仕事である。
すべての兄弟姉妹の正しく生きようとする欲求が燃え上がって自ずと出来る村を、新しき村と仮に名づけたのだ。今に新しき町が出来、都市が出来、国が出来ればそれにこしたことはないが、自分たちは少数でも、力弱くとも自らを正しく生かさないでおけない要求からこの生活に入った。社会主義は国家の力を借りようとする傾向がある。自分達は自分達の力で、一人の力でも、二人の力でも正しく生きようとするものの力の集まりでこの仕事をなし、生長してゆこうというのである。
さらに、信仰についても以下のようにまとめています。
新しき村の信仰はどこにあるのか。
一言で云えば、人類の真心を通して顕われる力を信仰することである。
この力に従うことが人間にとって最も強くたしかなことであることを信じることである。この力を他にして我等の頼るものがないことを信じることである。
人類の真心に従って生きる。人類の真心、自己の内にある真心によって生きる。それに背かずに生きる、そこに安住と、何ものも恐れぬ力を感ずる。
そのものこそ、真に新しき村の信仰をもつものである。この信仰を本当に持たぬもには迷いがある。新しき村の精神はわからない。この信仰を強くもつものは巌の上に家を建てる人間である。嵐にあっても崩れない。
私の専門である日本版システム工学では、人間を定式化し「人間=A+BX」としています。「A」は定数項で、人間が生来もっているもの、遺伝的なものとし、変数項の「BX」は語学能力や宗教のように後天的に身につくものとしていいます。もちろん、遺伝的に記憶力が良いというような特性が語学能力を高めることからも「A」と「BX」は混在していて厳密に分けることが実態にそぐわないこともありますが、思い切って割り切り、単純に定式化しています。武者小路実篤が言っている「真心」とは、「人間=A+BX」に当てはめると「A」、つまり、人間が本来持っているものを「真心」だと位置づけ、後天的な宗教教義などで身につけた「BX」とは位置づけていません。
ちなみに、イスラエルのキブツでは、労働に対するキブツの基本的な概念は、労働が幸福を獲得するための手段ではなく、労働そのものが幸福の源泉で、労働は人間の自己実現の手段であり、創造性の源泉であるとしています。
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新しき村の全体図
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村人が集まる公会堂
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食堂兼集会所
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食事時間も決まっている
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自由に食べれる野菜(たぶん)
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朝採れのタケノコ(孟宗竹)が並んでいたので、400円の大きなものを1本購入。今晩のおかずの1品にする予定です。
途中の鶏舎と思われる建物や、何かを飼っていたと思われる建物がありましたが、いずれも現在は、何もやっていないようです。また、子どもたちが遊んでいた近くの大きな建屋も何もなかったのですが、中にいる村民に聞いたら昔鶏卵を出荷していた荷捌き場だったとのこと。結構広く大きな建屋だったので、鶏卵が大きな収入源だったのでしょう。
鶏舎の隣に大きなソーラーパネルがあったので、村人に用途を聞いたら、東京電力に電気を売電しているそうです。てっきり、村のエネルギーを自給しているのかと思ってしまいました。
Wikiによると、以下のような状況のようなので、ある意味、新しき村も限界集落(人口の50%以上が65歳以上で、農業用水や森林、道路の維持管理、冠婚葬祭などの集落として共同生活を維持することが限界に近づきつつある集落)と同じ問題を抱えているのかも知れません。
近年、村内の高齢化が進み、平均年齢は60歳を超えた。鶏卵の値下がりや人手不足で養鶏を止めるなど農業収入の低迷もあり、村の運営が困難になってきている。過去の積立金を取り崩して赤字を補填している。2013年時点の村内生活者数は13人。村外会員は約160人ほど。2018年時点では宮崎で3人、埼玉で8人が暮らしている。 駅から新しき村に途中の道で、朝採りのタケノコが市価より1、2割安く売っているという看板が数か所あり、その宣伝に釣られてタケノコを購入することに...
新しい村に行くときは気が付かなかったのだが、帰りの道すがら駅の近くに、タケノコ無料でご自由に、というカゴが。「えええぇ」と思いましたが、ついでに1本もらいました(笑)
このサイズのタケノコだと鍋に入らず皮付きではアク抜きできそうにないけど、とにかくリュックに担いで帰りの電車に乗り込みました。
池袋西口(北)の「
四季香」で中華ランチを食べましたが、メニューを見てびっくり、アメリカザリガニ、カイコ、ここらまでは良かったのですが、犬肉もあり、本場中華の醍醐味が堪能できそうな店です。
ただいま!